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死刑よりも屈辱を

オウム真理教の松本被告の死刑判決について、サリン事件の被害者などから不満の声が聞える。「死刑より厳しい判決はないのか」
彼らの不満は釈明がないこと、罪を自覚していない、反省の色が見られないこと、殺すなら殺せといった開き直った態度を見せていること、要するに「土下座せい」ということ、遺族の苦しみを味わえということ。

しかし、どこまでも尊大なこの男は、自らの行為が日本社会において処罰に値するとしても、彼の信念に従えば何ら罪ではないことから、その心構えを変えることはないだろう。更生の余地なし、ゆえに、死刑宣告と相成ったわけだ。

刑罰が、被害者の憎悪を緩和する機能を想定したものであるかどうか、法学者に聞いてみたいところだが、反省の色のない受刑者に死刑では不満だと言うのであれば、どういう刑が相応しいのか、はっきり言ってもらいたい。
「市中引き回しの上、斬首、晒し首に処す」のがよいのか、公開の首吊りか、ギロチンか、石を投げつけたいのか、一人一本ずつ針を突き刺してうめき声を聞きたいのか、それとも、絶海の孤島に置き去りにするのがよいのか(そこで生き延びて悟りを開いたりなんかして)。

いったいどうしてほしいというのか、何が気に入らないのかはっきり言わず気に入らないと言う、自分の手を汚そうとせず、他人に手の汚れる仕事をさせようというのは性質が悪い。
いずれにせよ、彼らの望むおぞましいことを司法に求めるのは間違っている、と言いたい。

刑罰は、被害者の憎悪を慰謝するためのものではないと考える。
国家には、そのような情念を解消するための仕組みは存在しない、と言いたい。
(国家の仕組みは万能ではない。だから、色々な活動がありえるし、おかしな新興宗教団体もあるわけで、逆にすべてが統制された国家、SF的な管理社会こそゾっとする)
では被害者は怒りや憎しみをどこに持っていったら良いのか?
復讐を容認せよと?「目には目を、刃には刃を」と?
やり場のない怨念が魂を食い尽くす。ああ、私には救済が必要です。

オウム国では「邪魔者は消せ」ポアは、絶対権力者の命令に従えば、認められていた。
十字軍は宗教の名のもとに殺戮と略奪を行った。
戦争であれば、国のために敵を殺すのは英雄である。
なぜ人を殺してはいけないか、という問いに答えるには、なぜ人殺しをするのか、と問い返すよりほかない。
できるのに「してはいけない」ことを抑止する絶対的な原理は存在しない。
気に入らない店員を刺し殺すことも、核爆弾で一国を壊滅させることも、それができるのであればできる。
サドの小説『悪徳の栄え』の登場人物は世界を破壊する爆弾を夢想する。彼を引き止めるものは、唯一、その爆弾が実在しないことである。
ムルソーは死刑を前にした獄中、自分は幸福である、と確信する。彼は絶対的な自由、すべては無意味であることを悟った。

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