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岩下志麻は今携帯電話のメールにはまっている

2004/4/14(水)放送、フジテレビ系「トリビアの泉」
岩下志麻は今携帯電話のメールにはまっている。 76へぇ (銀の脳)

これは単にこの著名女優主演のドラマの宣伝のために押し込まれただけのものであって、トリヴィアと言えるものではなかったが。
さて、新聞の投書欄で、若い人たちが携帯電話のメールを頻繁に使っていることを憂慮する内容のものがあった、いわく、そのような無機質な文字ばかりと向き合っていて、対面した状況でのちゃんとしたコミュニケーションが取れるのだろうか、というもの。これは、ワープロを使うと漢字が書けなくなるという憂慮と同類である。
確かに、PCに慣れ親しんでいると、手書きの機会は少なくなるし、書こうとしている難しい漢字がパッと出てこないことが増える。けれども、そもそもPCの日本語変換が使えるのは、前提として漢字の知識が要求されるわけで、通常使う漢字はしっかり頭に入っている必要がある。通常使わない難しい漢字をPCが手助けしてくれるのは、辞書を引くより、手軽で便利でありがたい。辞書を引くのは面倒だから、その漢字を覚えるという効用があるが、PCの場合はそれはない。一長一短があるわけで、難しい漢字を何も見ずに書けないといけないと思うのであれば、PCは使わないほうがよい。
携帯電話でメールをやり取りするには、少なくとも文字の読み書きができなければならないわけで、まず、日本の文盲率の低さ、教育の充実を誇りに思うべきだろう。

携帯電話でのメールのやり取りは、ビジネスのEメールよりも即時性が強い。仕事でメールを使うのは、電話だと即時対応が必要になり作業の中断が発生するのを避け、仕事をもっと効率よく進めるためである。だが、携帯電話を使っている若者たちは、そのような伝言的用途でメールを使うだけでなく、すぐ返答が返ってくることを期待して、メールを送信することも多いようだ。であるならば、電話なのだから、音声通話すれば良さそうなものだが、それを文字のやり取りで行うのである。こうなってくると、Eメールが「手紙」のデジタル相当物と考えられるのに対して、携帯メールは、むしろそれを超えて「文字通話」と言うべき物に思われる。(絵文字すなわち象徴的記号の多用という興味深い考察対象もある)

中世欧州にて、活版印刷の発明で書物が広く世に配布されるようになると、それまで音読が主流だったのが、黙読に取って代わられた。それ以前は、黙読は、ぎょっとする奇妙な行為と見なされていたのである。それと同じように、電話は音声通話するものという通念が携帯メールで覆される。近い将来(それともすでに?)電話は、音声通話より、文字通話が主流になるのではないだろうか。

[要点]
携帯電話のメールは手紙の代替手段という観点ではなく、「音読 <-> 黙読」に相当する「音声通話 <-> 文字通話」の関係から考察すべきである。

あえて音読する機会は学校の授業ぐらいなもので、音読する習慣がないから、声を出して本を読むのが不自然に思えるように、文字通話に馴れきってしまうと、会話がぎごちなくなることもあるかもしれない。しかし憂慮するほどのことではない。携帯電話を使いこなせるということは基本的なコミュニケーション能力は十分にあるのだから、それがなくても、状況に応じた別手段にすぐ馴れることができる。


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