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「川崎小3転落死」考

「川崎市多摩区のマンションで小学3年の山川雄樹君(9)が最上階の15階から転落した事件」は当初、事故として報じられていた。子供は通路の防火設備に乗ってよく遊んでおり、誤って手すりを踏み越えてしまったのではないか、ということだった。この後、事件は急展開を見せ、これは投げ落とされた殺人だったことが判明した。犯人はリストラされたサラリーマンで、3人の子供を持つ父親であり、「うつ病だった」「自殺願望があった」と話したという。
この事件で私が興味深く感じたのは、犯人はなぜわざわざ高所から突き落とすという面倒なことをしたのか、という点だった。刃物を持って教室に乗り込んだわけでもなし、下校中の小学生を連れ込んで猥褻行為に及んだり、後ろからいきなり鈍器で殴りつけたわけでもない。そんな、もっと機会が多く簡単に実行できそうな凶行ではなく、チャンスの少ないものを選んだ理由は何だったのだろうか、ということだ。
 その後、さらに、犯人は、当初おばさんを狙い、さらに掃除のおばちゃんに犯行未遂したことが明らかになる。となると、これは小学生をターゲットとしていたわけではなく、獲物はこれが実現できる弱い相手であれば誰でもよかったことが判明する。

 私が小学生の頃、猫を袋に押し込んで川に投げ込んだ奴の話を聞いたことがあった。子供は残酷なものだ。『禁じられた遊び』の主人公たちのように、子供は生命の尊さを知らない。「もののあはれ」をまだ理解できない。残酷な行為が彼らを興奮させる。大人になって、その禁じられた行為が魅惑的に思える奴もいるのかもしれない。
 鴨に矢を打ち込む男は、その行為に興奮し、満足するに違いない。しかし、彼は、それが物足りなくなったら、次は人を撃つのだろうか。そうかもしれないし、そこまで行くことはないのかもしれない。
 ただ、小学生を突き落とした犯人は、この種の「快楽殺人者」ではなかったものと思われる。彼は、家族思いの父親であり、決して弱者をいじめて喜ぶような奴ではなかった。

 私が注目したのは、犯人の「自殺願望があった」という言葉だった。この男は、もともと自分が自殺するために、マンションの最上階を選んだのではなかっただろうか、と思えた。しかし、彼は、自殺するのをやめ、自殺のシュミレーションを行ったのではないか。飛び降りようと思ったとき、飛び降りて死ぬとはどういうことなのだろうか、という興味が沸き立ってきたのではないか。それを確かめたいという気持ちが、彼の心の隙間を埋めたのではないか。
(その後、犯人は、以前、犯行現場から自殺を試みたが怖くなってやめた、と供述していることが明らかになった)
 ここにはコロンブス的展開がある。それまでは、何もうまく行かず、塞ぎ込み、自殺しようと思うまで追い詰められていた男が、いざとなったところで、自分が心底興味を持てる対象を見つけたのだ。それは、飛び降り自殺とはどういうものかの実験することだった。

 私が中学生の頃、死んだらどうなるか確かめるために自室で首吊り自殺した学生のニュースを聞いたことがある。これは愚かな行為だ。もし自分が死んだら何も確認できないと思われるからだ。死後の世界に生の世界の常識は通用しないかもしれないからだ。
 このような絶対矛盾において、私たちにできることは、自ら死にかけること、あるいは死を迎える人を観察することだけだ。
 かよう、犯人は、死とはどういうものか探求したくなったのだろう。

 清掃婦を、ゴミがあると嘘を付いて最上階に誘い込んだ犯人は、引き篭もりの「うつ」病者の気だるさは微塵もなく、活き活きと、期待に満ち、自信をもって行動したに違いない。これは彼にとって生きがいとなったのだ。
 そして、小学生の背後から襲い掛かり、まんまと作戦成功したとき、彼はどんな感覚を味わったのだろう。一発やって、スッキリ満足したのだろうか。否、それとも、こんなものか、というあっけなさを感じたのだろうか。少なくとも、退屈はしなかった。仕事を成し遂げた充実感はあったに違いない。現場を去りながら、体の震えを感じたことだろう。皮肉なことに、彼は他人の命を奪うことにおいて、生きるとはどういうことか思い出すことができたのだった。
 自分の内側に向かう破壊衝動を外側に向けること。それはとりもなおさず、世界と関わる、ということだ。(ああ、また俺は何をわけのわからんことを...)

 自称「うつ」病者は、不当な支払いをさせられていると感じている。こんなひどい人生はあるだろうか、と思う。こんな負債を背負わされるのはまっぴらだと。
 娘が交通事故で大怪我を負ったとき、男は、なぜよりによって自分の娘が、と思っただろう。いったい自分が何をしたというのだ。天は自分に何の恨みがあるというのか。
 だが、そんなことはザラなのだ。そんなことは旧約聖書の時代から書いてある。人生とはそういうものなのだ。思うようにならないのが人生。

 犯人はまだ十分生きていない子供の生命を奪うことによって、自分の生命を「充電」した。そして、自分が苦しめられた「不当さ」を、被害者の両親に「感染」させた。小学生は犯人の身代わりになったといっても過言ではない。
 そこで私の中の悪魔が尋ねる。この男は自殺していればよかったのではないか、と。もし、この男が消えていれば、小学生の死はなく、その両親の悲しみや怒りはなかった。男の家族は、父親が自殺者であれ殺人犯であれ、いずれにせよ苦しむのは変わりがないのだ、と。
 だが、命の重さに違いはないのだ。前途洋洋たる子供のそれも、打ちひしがれ、事故憐憫に溺れた、甘やかされた中年のそれも。どんなに不公平に思われてもそうなのだ。パニック映画で助かるのは、悲鳴をあげてばかりで何の役にも立たない連中で、他人を救うため一生懸命努力する殊勝な人々の命こそ犠牲になる。それがどんなに不当なことに思われたとしても、愛する娘を失ったリア王がどれだけ天を呪おうとも、なお、それは真実である。一つの命が失われなければならない定めだった。その命が誰のものであれ。

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