最近それほど映画を見ておらず、録画したDVD-Rは溜まる一方、何を録画したかわからないまま、同じものをまた録画したりしている。一時期買い込んだ中古ビデオの山は、一覧テキストがあるので、何を持っていなくて何を持っていないかは、大体わかる。DVDパッケージはまだ数が少ないので見渡せば何とかなる。しかし、DVDを買うべきかどうするか悩むとき、テレビ放送されたものを録画したかどうか調べるのが大変なのだ。この点に関しては、誰かボランティアで自分の代わりに録画内容のデータ化をやってくれないか、と常々思う。しかし、そもそも、見もしないものを録画して溜め込むことに何の意味があるのだろうか?
「劇的改造ビフォーアフター」で大学教授夫妻が研究用の蔵書を収納するためにリフォームを行っていたが、彼らの研究を引き継ぐ者がいなければ、その蔵書にどれほどの意味があるのか大いに疑問に思ったものだが、自分のやっていることもまったく変わらない。そういうことを続けるのは人間の愚かさなのか、愚かであっても続けずにはいられない悲しい性なのか、死の暗い影へのささやかな抵抗なのか、生きるのはこういうつまらないことの積み重ねであって、悟りを開かない限り迷妄からは逃れられないということか。
またしても、「気の迷い」と思いつつ、DVDの買い込み病が再発しかけている...
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標題の『サンゲリア』であるが、その手の映画(ゾンビもの)ファンには定番であり、名作とされており、今更説明の必要のない作品だろう。なぜ、この映画をまた見たくなったのか自分でもよくわからない、というか、DVD-R焼きなどの作業をしているとき、面白いテレビ番組を放送してなく、普段使ってない古いDVDレコーダのHDD録画したものを再生してみたがこれまた面白いものがなく、DVDをかけてみようか、かといってまだ見てないものを斜め見するのもなあ、と思って選んだのがこれだった、ということである。
まず、見直して感じたことだが、短い! あっという間に終わってしまった感じ。実際の時間は一時間半強で、娯楽映画の標準的な長さで、観客を退屈させない最良の長さと考えられている。この映画は特に無駄がないと言うか、よく練られていると言うか、見せ場がうまく配置されているか、娯楽映画として実に計算高く作られているように思える。この映画のネタ元になった、ゾンビ映画ブームを生んだ記念碑的作品であるジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』と比べてみると、かなり印象が異なる。
米国公開版の『ゾンビ』は二時間強あり、これを初めてビデオで見たとき、テレビで見たものと別物に思えた(ゴブリンの印象的な音楽が使われていないのも大きいが)。テレビ放送されていたものは、これより短く編集されたイタリア公開版をさらにカットしたもので、長さは一時間半強である。面白いことに、テレビ放映版の『ゾンビ』は『サンゲリア』に近い印象がある。ロメロは作家性の強い映画監督であり、彼のゾンビ映画にはそれぞれ興味深いテーマが見られるのだが、これを一時間半ほどにカットすると、まったくの娯楽映画になってしまうということだ。つまり、ロメロの映画は、間違いなく、娯楽映画の文法にのっとっており、それを土台にしているわけだ。逆に、ルチオ・フルチ監督の映画のほうは、娯楽映画に徹していると言える。
ロメロの『ゾンビ』"DAWN OF THE DEAD" のイタリア公開題名が "ZOMBIE" であり、「勝手に続編を作る」というイタリア映画界の伝統に則って、『サンゲリア』の原題は "ZOMBIE2" である。邦題は配給会社が付けたもので、ダリオ・アルジェント監督のオカルト要素の強い恐怖映画『サスペリア』が大ヒットしたところから、それにあやかって、それに近い意味不明な邦題が色々考え出されたようだ。
この辺りの事情は、洋泉社「70年代映画懐かし地獄」"東宝東和宣伝部、伝説の..." に詳しく、『サンゲリア』という邦題は、「血の酒と言われるカクテルのサングリア」を基にしたとのこと。ちなみに、飲料メーカーの「サンガリア」とも非常に近いのだが、こちらの由来は、杜甫の詩「国破れて山河あり」なのだそうだ。
年代がバレるが、この映画は、私が非常に多感な時代に公開されたもので、当時は夏になると、夏休みに公開される恐怖映画の紹介番組をよくやっていて、『サンゲリア』の目玉木端刺しシーンは、ギリギリのところでカット、その後どうなるかが大いに話題になったものだ。
さて、話を元に戻して、娯楽性の徹底、ということで言えば、ロメロのゾンビが、肌を青塗りにしただけのように見えるのに対して、この映画に出てくるゾンビたちは、死体が蘇るというのならば、墓場に眠っている腐乱したやつだって蘇っていいはずだとばかりに、腐りきってもはや顔つきもわからなくなってしまった死体が、墓場からむくむく起き出すのである。しかし、よく考えたら、腐り切ってボロボロになっているわりには、顎や歯だけはしっかりしていて、生きている人の喉を噛み千切るというのはおかしな話だ。そういうことを言い出すと、そもそも、この蘇った死者どもは、生きている人を食らうのだが、食ったものはどうなるのだろうか。消化して栄養にするとでも? 食うのなら排泄もするのか? などなど疑問が沸騰するわけだが、そういったことは時間旅行のナンセンス同様、わかり切っていても、作り話を楽しむためには目をつぶらないといけない(詩人キーツの言うところの Negative Capability、いや、こういうことを言うと英文学者に馬鹿にされるのだが!そんな低俗な話ではない、と言われるね)ということだろう。
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「恐い」映画と言っても、その恐さは一様ではなく、恐怖は大雑把な概念に過ぎない。(詳しくはスティーブン・キングの著作でも読んでもらうとして...)
ゾンビ映画の怖さは、噛み付く犬に追いかけられるようなもので、実際『ゾンビ』のリメイクである『ドーン・オブ・ザ・デッド』には、それに近いシーンがあったと思う。深夜にトイレに行くのが怖いというときの怖さとは異なるものだろう。
それに加えるに、気持ち悪さ、汚いものへの不快感、などが混じってくる...
私は怖さの本質を見極めたいとか、恐怖を分類したい(そういったことはキングに任せよう)というよりも、言葉は場合によっては不十分であり、物事を必ずしも的確に表現できないということを言いたいのである。例えば、カレーとワサビが同じ「辛い」という言葉で表現されるのは無理があると思う。
一口に恐怖映画が好きだと言っても、どんな怖さなのかが問題で、人によってそれが気に入るかどうかはかなり異なるだろう。少なくともこの映画が私の口に合っていることは間違いない。