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自衛隊は軍隊か?(その3)

特攻服を着て改造バイクに跨った一団を「暴走族」と呼んだところ、彼らは自分たちは「暴走族」ではないと言う。なぜなら、彼らは、交通法規を守り、制限速度で整然と走っているから、「ツーリングクラブ」なのだそうだ。
(逆にBMW純正品で身を固めBMWに跨った一団であっても、迷惑運転を行っていれば、「暴走族」と呼ばれなくもない)
であるならば、自衛隊が軍隊でないと言えるには、彼らが軍事活動を行っていなければよい、ということになるかもしれない。
しかし、彼らが行っている演習や、海外での活動が軍事活動でないと言えるだろうか?
目的が専守防衛や、国際貢献であれば、軍事活動ではないと言えるだろうか?

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'07/09/15 ゴミ箱から拾ってきた映画『ジェラシー』(伊70年) PIZZA TRIANGLE

いまや巨匠、イタリア庶民派(?)エットーレ・スコーラ監督の初期監督作品で、個人的に愛してやまない映画である。
昔、テレビ愛知の朝か昼の映画番組をベータで録画してずっと大切にしていたものを、DVD-Rに焼いたのだが、一時間半枠の放送でCMをカットすると正味1時間10分弱で、実際のところどれほどカットされているのか気になっていた。
DVDが出ていないか探していたのだが、何のことはない、アマゾン・ドイツ amazon.de で買うことができた。しかし、このDVD、ドイツ盤なので、音声がドイツ語/イタリア語、字幕はドイツ語である。本編正味1時間40分強だったので、となると、なんと、30分もカットされていたことになる。
私はイタリア語もドイツ語もわからないので、字幕なしイタリア語音声で見てみたのだが、エットーレ・スコーラ監督作品は台詞が多いので、イタリア語がわからないのはかなりキツい。とはいえ、テレビ録画した日本語吹替え版は、3割カットでも大筋は問題なく、大体何をしゃべっているのかわからなくもない。確かに見たことのないシーンが色々あった。何にせよ、気になっていたのは、イタリアン・リアリズム映画の伝統を汲む(んですかね?)スコーラ監督の、良くも悪くもイタリア臭い(それゆえ、好き嫌いが分かれると思うのだが)映画のペースやリズムは、1時間10分では味わえないものだということだ。
主演は、マルチェロ・マストロヤンニ、モニカ・ヴィッティ、ジャンカルロ・ジャンニーニ。男二人に女一人の三角関係を描いた喜劇であるが、チャップリンよろしく、悲しい結末。泣ける。おかしくて悲しくて、これが人生。
アルマンド・トロヴァヨーリの音楽がまた素晴らしい。(サントラCD日本盤あり)

* * *
ドイツ盤ということで、PCで再生してテレビ出力したのだが、ドイツ語字幕データを抽出し、機械的に英語に翻訳できれば、日本語訳もできるだろう。

ミケランジェロ・アントニオーニ作品でもお馴染みの女優モニカ・ヴィッティは、少々エラが張っているのか、顎がしっかりした印象で、日本の女優に例えると誰か、と考えていて思いつかない。

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安直な英語の使用には眉をひそめたい

テレビをつけていたら、ワニが逃げたニュースで「ケージ」という言葉が出てきたので、おやっと思ったのだが、恐らく、英語の cage(檻)のことだろうが、どれだけの視聴者がそれを理解できたのだろうか? なぜ「檻」と言わないのだろうか?
ちなみに中日新聞の記事「引き取り手未定 立ち往生 金沢ワニ騒動 東署捕獲の2匹」でも、「檻」ではなく、「ケージ」と表記されているところを見ると、これはある種の専門用語として区別して利用されている可能性はある(例えば、わかりやすいところでは、Microsoft 社の PC 用 OS である Windows は、まさしく「窓」であるが、製品名として「ウィンドウズ」と呼ばれる)。それにしても、英語にそれほど詳しくない人にしてみれば、「ケージ」と言われると、そのイントネーションから、「刑事」に聞こえることが多いのではないだろうか?
それを「檻」と言わず、あえて「ケージ」と言わなければならない理由が釈然としない。たとえ、その檻が特殊なものであって「ケージ」と呼んで区別すべきものであったとしても、全体の内容からすれば、それは大して重要なことではないと思われる。わかりやすさを優先して、やはり「檻」と言うべきだと思える。
スキームやら、レジームやら、言いたがるのは政治家に任せて、報道は万人にわかりやすいよう努めてもらいたいものだと思う。

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ちなみに、アンシャン・レジーム・トリコロールと言えば、矢吹春奈であるが、この言葉に深い意味はないと思われるので、あまり追求しないほうがよいと思う。

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ある政治家がある法案か何かの今後について「ナロー・パス」だと言っていたが、このような大衆に伝わらない言葉を使いたがる人間はあまり信用できないと感じる。真に教養のある人であれば、きちんと「茨の道」であると言うだろう。

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カリフォルニア州知事にして、ヒットラー信奉者であるドイツ系アメリカ人、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画の邦題は意味不明なものが多いが、その中でも最もわかりにくいのが、「コラテラル・ダメージ」Collateral Damage で、これは「英語タウン」によると、「目的の為の犠牲」(政治的にやむを得ない犠牲)という意味らしい。直訳で「付随的被害」では意味がわかりにくいが、要するに、「被害」damage はあったが、それは「副次的な」collateral ものに過ぎない、ということらしい。
この映画のDVDのストーリー解説では、「...やがて彼は疑い始める。妻子の死は国家にとって”コラテラル・ダメージ=目的の為の犠牲”なのではないかと」なっている。
英語の勉強になるのはよいが、安直に英語をそのままカタカナ表記するばかりが能でないと思う。久間元防衛相ならば、この邦題について「しょうがない」と言うだろう。

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駄熊猫的日記

2007/09/16(日)
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運行前点検で(と言ってもそんなに大げさなものではないが)気が付いたのは、左折ウィンカーのインジケーターの点滅が速いことで、恐らく前後どちらかの左折ウィンカーが点いてないのだろう。しばらく、繰り返していたところ、点滅速度が通常に戻ったので、出発することができた。帰ってきたから確認したところ、やはり同じ症状なので、降りて確認したところ、後ろのウィンカーが点いていない。プラスチックカバーを軽く叩いてやったところ、正常に復帰、また駄目になったので、もう一度叩いてやった。
同じ症状は以前、右折のリアウィンカーでよく出ていたので、今度は左というわけ。一度カバーをはずして、接点金具を調整してやる必要がある。恐らく電球の問題ではないだろう。
いまどき「叩けば直る」なんてないよな!
困った奴だが、この程度のことに目くじら立てなさんな。おおらかにいこうや。

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まだキーキー音がすることがある。もしどこかが緩んでいるとすると危険かもしれない...
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リアスピーカーは定位だけの問題ではないようで、たまに音が切れたり、ブツブツ音しか出なくなったりする。これまた接触不良っぽい。

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少し訳があって自宅のスズキ・エブリィ・ワゴンを運転することになった。この車は軽自動車規格のワンボックス・ミニバンで、多彩なシートアレンジと電動スライドドアが売りである。カタログを見てもいたれりつくせりで大変良くできている。
しかしねえ、運転した感じがどうも気に入らない...
この車は、同じスズキのエブリィランディ(これは軽ではない)からの乗り換えなのだが、運転感覚はほとんど変わらない。異様にステアリングが軽く、アクセルは遊びが大きく、踏み込みが軽く、エンジン音は静かで速度感が希薄、ブレーキもまた遊びが大きく、踏み込みが軽く、効き始めがわかりにくく、あるところから制動力が突然立ち上がってくる感じ。
駄熊猫とはあまりに違いが大きい... 駄熊猫はすべてがダイレクトだ。すごくわかりやすい...
運転感覚が大きく異なるので、戸惑ってしまうだけで、慣れてしまえば、それでも問題ないのかもしれない。けれども、なぜ、そのような味付けになっているのかが、よくわからない。快適さを追求した結果だろうか? このような走行情報を感じにくい車を運転するのは、個人的にはかなり不安を感じる。
マツダ・ロードスターの開発者が、開発コンセプトとして「人馬一体」というのを挙げて、わざわざ「人車一体」ではなく、と断っていたが、それはそもそも無理があると思う。「人馬一体」を感じるのはモーターサイクル特有のものであって、自動車にはあり得ないと思う。似て非なるものでしかない。
二+二+四輪生活で「人馬一体」感を日頃から感じている私にとって、「四輪スクーター」駄熊猫の操縦感覚は、違和感ないものなのである。しかしそれはあくまで「人車一体」感覚であることは疑う余地がない。

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児童ポルノ禁止令

やしきたかじん司会の番組で、わが国は、児童ポルノ輸出大国になっていること、児童ポルノは所持しているだけ処罰の対象とすべきだと議論されていた。
私は「児童ポルノ」というものがどういうものかよくわからないのだが、書店で堂々と売られている成人女性のヘアヌード写真集はポルノではないのであれば、少女の「アンヘア(?)」ヌード写真集もまたポルノではないことになるのだろうか?
参考までに児童ポルノ法での、「児童ポルノ」の定義は「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」ということらしい。では、デイヴィッド・ハミルトンの写真集や映画は児童ポルノとみなされるのだろうか?
これは「わいせつ」同様、あいまいなものでしかない。児童ポルノに性欲を刺激されるのは、児童ポルノ愛好者だけであって、一般人はそんなことはあり得ないから、あるものを児童ポルノであると判定するのは難しい、との議論だった。しかし、NHKの体操番組に興奮する特殊な嗜好の持ち主がいるからといって、それがポルノとはなりえないように、判定の根拠は製作者の意図にあると思われる。

番組中の議論で気になったのは、児童に被害を及ぼした犯罪者が、児童ポルノを所有していたという事実があるので、所持を禁止すべきといったものだ。その理屈から言えば、成人女性に乱暴を働いたり、痴漢行為を行った男が、「アダルト」な品物を多く所有していることは少なからずあり得るから、その種のポルノの所持もまた禁止されるべきことになる。だが、そのような性的犯罪を行わない男性がそのようなものを所有していることもまた大いにあり得る(当然っ)!
つまり、そのような所有物は、犯罪者の興味の対象を如実に示してはいるが、必ずしも、犯罪を誘発するものとは言えない、ということである。

では、児童ポルノを禁じるべき理由が、性的犯罪の誘発と関連がないのであれば、それは何なのだろうか?
児童ポルノの製作過程にこそ犯罪的行為がある。
何もわかっていない子供を利用している、玩具にしている、道具にしている。そこで、子供の心に深い傷をつける。
(といっても、わが子をアイドルにして自分はマネージャに収まる親も大差ないような気がするが...)
そういった計算高い大人の汚い手から子供たちを保護しなければならない。子供は純粋で汚れなきものである...
そういった意見は、現場を知らない素人のものと言われそうな気がしなくもない。(空回りする正義)

そういった理屈はすべて後からとってつけられたものでしかないように思える...

要するに、アブノーマルは悪なのである。少数派は悪である。けしからんっ!のである。
ホモもレズもサディストもマゾヒストもフェティシストも変態であり異常者である。そして、そういった特殊嗜好の自覚症状のある連中は、市民権を得んとして努力する。ならば「児童愛」というものが、ダーティーなものではなく、真っ当なものとして見られる文化・時代が来ないとも限らない。(古代ギリシアでは少年愛こそ純粋なものであり、男女の関係はダーティーなものと見なされていた)

個人的には児童ポルノの禁止に反対する理由はない、誤解なきよう。ただ「アダルト」ものまで所持しているだけで罪ととなれば、それは禁酒法のようなものになるだろう。

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エコ・エコ・アニヤ・プリウス

私も人並みに「エコ」に関心があるので、スーパーの買い物ではレジ袋を受け取らないよう、マイバッグを持っていくのだが、それはたまたま家にあった何の変哲もない黒のトートバッグで、サイズもぴったり、肩から提げてもちょうど良いにもかかわらず、話題になったアニヤ・ハインドマーチのエコバッグを見るにつけ、自分のバッグももう少し主張が欲しい気がしなくもない。例えば、わかりやすく「レジ袋不要」と書いてあるとか、ゴーストバスターズのようなロゴが付いているとか。
それにしてもなぜ紙袋がなくなってしまったのだろう。薄茶色で中の透けない紙袋こそ、買い物帰りにふさわしいと思うのだが。袋貼りの内職が足りないのだろうか。書店だとまだ紙袋のところは多いと思うが。(単にコストの問題らしい)

レジ袋は最近脚光を浴びているが、もう二十年ぐらい前から、路線バスのアイドリングストップはあった。信号で止まるたびに車内が静かになるのが不思議な感じだった。
豊田のプリウスもそんな感じなのだろうか?
しかし、この車、好かない...
プリウスが他の車に比べてかなり燃費が良いのは事実だとしても、本田スーパーカブには到底及ぶはずもなく、わずかな燃費向上のために、大いに複雑な機構を使っており、製造コストも、維持・保守費用も高くつくと思われるからだ。
単純に考えれば、排気量の小さいエンジンで車体を軽くすればよいのであるが、いまさら360ccの軽自動車に戻るわけにもいかないということか。
プリウスという車は「エコ」を主張しているが、真にエコであるのは、必要なとき以外は車に乗らないことであって、距離や天候にもよるが、一人だけなら原付で済ましたほうが有害ガスの排出量は断然小さいはずで、自転車で間に合うのならそうすればなおさらだろう。それこそ、エコの実践だと思えるが、それはわかりにくい。ハリウッドセレヴのようにエコの看板を掲げた車を運転したほうがエコだと見なされるのだ。
すなわち、主張か実践か。

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弁護士が何とかしてくれる(その2)

死刑廃止論に賛成か反対かと問われたならば、個人的には、反対の立場となる。というのは、死刑廃止論の根拠に納得がいかないからだ。死刑廃止論者に言わせれば、死刑は国家による殺人であり、それ自体が罪であるということになるのかもしれないが、しかし、であるならば、なぜ監禁ならば許されるのか、ということが理解できない。
もし、死刑を廃止するならば、その代わりにどんな刑罰が科せられるのだろうか。無期懲役の禁固刑だろうか?それとも脳外科手術や薬物投与による人格改造だろうか?それらは罪ではないのだろうか?
死刑に反対することに反対はしない。ただ、別の納得いく理由を提示してほしいのだ。

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弁護士がなんとかしてくれる

光市母子殺人[屍姦]事件の裁判で、被告が「ドラえもんがなんとかしてくれると思った」と述べたと聞くと、アルベール・カミュの『異邦人』の主人公ムルソーが、殺人罪の裁判で「太陽のせいだ」と答えたのを思い出さずにはいられないのは私だけだろうか?
こういうのを「不条理」と言うのだろう!

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正確には、一歳弱の娘を紐で絞め殺し、その遺体を押入れに入れた理由として、「何でも願いをかなえてくれる場所だと思っていた。ドラえもんがなんとかしてくれると思った」という発言があった。
首をひもで絞めたことは覚えていないとし、「亡くなったと分かって絶望し、ドラえもんが何とかしてくれると思い、押し入れの天袋に入れた」とのことである。

ドラえもんと押入れがどう結び付くのかわからないが、ドラえもんと言えば、のび太の机の引き出しから現れたのであり、そこが時間旅行の出入り口になっていたことへの連想だろうか?

屍姦した理由について、山田風太郎の『魔界転生』の影響とし、復活の儀式だったとしたのは、ドラえもんに比べると面白くない(失礼!)。これは前言と矛盾している。「いざとなればきっとなんとかしてくれるさ。いつもそうなんだ」とドラえもんに頼ってばかりいるのび太がそんな凄いことを行うだろうか?
ドラえもんの最終回で、最早ドラえもんは何もしてくれないからこそ、自分で何とかしなければならないわけで、自分でなんとかするつもりだったら、「ドラえもんが何とかしてくれる」ということにはならない。

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カミュの小説では、主人公は、死刑直前に自分は幸福だと確信する。
ならば、この被告人もまた、ギロチンを前にして(これは比喩的表現)、誰かがなんとかしてくれると確信できるだろうか?

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ひねくれ、わざとらしさ、思い上がり

(この表題はビスワンガー著『思い上がり、ひねくれ、わざとらしさ』から取った)

全校集会で校長先生が、スキーを買ってもらえなかったからと言って自殺した子供がいたがそんなつまらないことで死んではいけません、といった話をしたのを聞いたならば、校長先生は含蓄の深いありがたいお話をなさる、と感じなければならないのであって、それについて、「そんなつまらないことで」と言っても、崖っぷちに立っていれば軽い一突きで死に到るのであって、スキーを買ってもらえなかったというつまらない出来事は、自殺に到る本質的な原因ではなく、きっかけであり、そのわずかな一押しきが死を招くような事情・状況があったのではないか、と考えを巡らすのは、ひねくれていると見なされるので、気を付けなさい。そんな私はすっかり義務教育に失望してしまった。
(学校で教えられるのは、物事の真実を追求することではなく、ある種の「社交性」である)

お決まりの言葉や概念は、そのまま受け入れるのではなく、もう一度よく考えてみるべきだ!

例えば「大事なのは過程であって結果ではない」というのは、結果が出なかった場合の慰めの言葉として使われることが多いと思うが、しかし、この言葉は、結果が出なくても大丈夫だということを意味しているのではなく、望む結果を得るためには何をしなければならないか、それが重要だ、ということを説いているように思われる。
これをもし、変に文字通りに受け取ってしまうと、結果が出なくてもよいということになってしまう。
いつまでも合格できず浪人生活を続けているのは、それでよいわけもなく、早く何かが間違っていることに気づくべきである。実は内心、親に仕送りをもらって勝手気ままな現在の生活を続けたいのであれば、結果が出るわけもない。
人は結果を求めて努力するわけで、結果が出なければ、そこに費やした努力が大きいほど、失望も大きい。ここで人は分岐路に立たされる。これまでのやり方の間違いに気づいてもう一度やり直すかもしれないし、潔くあきらめて方向転換することもあるだろう。結果は必然である。

次に「外面より内面が大切だ」とか、もう少し砕いて言えば「見た目より心」とか言った言葉は、容姿がまずい場合の慰めとして使われることが多い。この命題自体には賛成である。しかしながら、この種のことを言いたがる人は大きな勘違いをしているし、それは自分の言っていることと矛盾さえしているのだ。
「美しい心」は「美しい容姿」より遥かに価値が高い。そして価値が高いものは押しなべて希少である。ごろごろ転がっているものの価値は低い。「心が美しい」人は「見た目が美しい」人より遥かに少ないのである!
容姿端麗であることも、そうでない人より希少であるから価値があるのであって、そうすると、「人は見た目じゃない、心なんだよ」と言いたがる人が信じ(たがっ)ているように、まずい容姿を補うように心の美しさが備わっているのであれば、「美しい心」はそうでないものよりたくさんあって、あり余ることになってしまう。多分、それは本当のところ、何の特別の価値もないものでしかない。そういうことを言いたがる人は、実は「美しい心」を汚しているのだ。結局は「普通」が一番というわけだ。
マザー・テレサの限りない慈悲が誰にでも備わっているわけがない!

* * * 一般的事例 * * *

「沈黙は金」は、黙っているのが良いことだ、という意味ではなく、「雄弁は銀、沈黙は金」であり、雄弁に勝る沈黙がある、時には黙って耐えなければならないときがあるという意味に捉えるべきと思われる。

「ペンは剣より強し」は、言論は武力に勝る、という意味ではなく、「全き偉大な人々の統治下では、ペンは剣より強い」のであるから、武力で統治することは偉大ではない、言論で統治できることこそ素晴らしい、といった意味ではないかと思われる。

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'07/09/09 ゴミ箱から拾ってきた映画『大沈没』(仏72年) LE PETIT BAIGNEUR

フランスの喜劇役者ルイ・ド・フュネスの主演作。ルイ・ド・フュネスと言うと、個人的には「ファントマ」シリーズの印象が強いが、他にも色々な出演作がある。
この映画は昔々テレビの吹替え版を見たので、ビデオ化されているのを知ったとき、思わず買ってしまった。日本ではフュネスの知名度は低いが、この映画を見るとその理由がよくわかる。あまりに「フランス臭い」のである。
要するに、その国では人気があっても、他の国ではさっぱり、というもので、地域色が強すぎるのである。しかし、逆に、なるほど、フランスというのはこういう感じなのか、というのが感じられるのがとてもよい。都会的で洗練されたイメージは一面であって、日本でも、東京もあれば、コテコテの大阪もあれば、古都京都もあれば、北海道の大地も、沖縄の島もあるのであって、どの国でも一面的に捕えるのは間違いだということがよくわかる。
ハリウッド映画に慣らされていると、かなりとっつきにくい感じはある。しかも、ギャグは決して強烈ではなく、あくまでのん気でのんびりしている。それでも、私は、見ているうちにぐいぐい引き込まれてしまった。
おフランスはルイ・ヴィトンだけではない。ルイ・ド・フュネスを見よ、ということだ。

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'07/09/07 ゴミ箱から拾ってきた映画『リストマニア』(英75年) LISZTOMANIA

購入したビデオについてはリストアップしているつもりだったが、そこに漏れているものもあるようで、手持ちなのに間違ってまた買いそうになってしまった。持っていたような気がしたので、棚に並んでいるものを見直してみたら、やはりそこにあった。しかし、棚に並んでいる分はよいが、入りきらず積み上げてあるほうが数が多いので、そちらにあったらどうしようもない。ここまでくると専用のラックにしっかり分類しないといけない。以前もそう思って、一時ビデオの購入を見合わせていたのだが、また買っておきたいものがいくつか出てきて困っている状況である。
積み上げておいても何ともならないので、少しずつでも、時間が空いたら見るようにしようということで、一本選んだのが、ケン・ラッセル監督の未公開映画『リストマニア』である。
この映画は、CSで放送されて録画もしたような気がするが、まだ見てないので手持ちのビデオで見ることにした(今のところ未DVD化)。リック・ウェイクマンが音楽担当で、サントラLPレコードは聴いているし、主演がザ・フーのロジャー・ダルトリーともなれば、面白くないはずがない。(同監督同主演の『トミー』はビデオ録画してあるが、ぜひDVDが欲しい!)
ケン・ラッセル監督は、チャイコフスキーやマーラーの生涯を題材にした作品を撮っているが、この映画ではフランツ・リストを扱っている。『アマデウス』の監督候補にも挙げられたらしい。確かに、ケン・ラッセル監督がモーツァルトの生涯を描けば、もっと面白い映画になっただろうが、戯曲のシナリオやハリウッド資本の制約があっては、力を発揮するのは難しかっただろう。
リストを扱った映画と言えば、他にもダーク・ボガードとキャプシーヌが主演した『わが恋は終りぬ』(米60年)SONG WITHOUT END がある(昔々テレビで見た)が、この普通のドラマと比べると、『リストマニア』のリストは、まずロックスター然と描かれており、相当強烈で、ファンタジックなシーンのオンパレードとなっている。ケン・ラッセル監督の他の映画を見ていれば驚くことはないのだが、はっきり好き嫌いが分かれる類のものだと思う。
チャイコフスキーの生涯を描いた「恋人たちの曲/悲愴」では、強烈な描写はあっても、時代背景は守られていたし、幻想的なシーンはなかった。『マーラー』には、マーラーが精神分析医にかかっていたという史実もあり、それらしい幻想的なシーンはあったが、全体に占める割合から考えればわずかなものだった。だが、この映画は、最早、やり過ぎとか、悪ふざけが過ぎる、といった批判を免れないほど、圧倒的にファンタジックな映像に溢れている。
フェリーニの作品もそうだが、これは極めて詩的な感覚であって、小説や演劇的な感覚では理解できない。スラップスティックコメディにも同様の感覚があり、この映画をコメディとして見るのも悪くない(実際、チャップリンの映画のパロディーらしきシーンもある)と思う。
私が強く感じたのは、イギリス的なユーモアというか、島国根性みたいなもので、これは「大陸的」と呼ばれるようなものとは逆のもので、毒々しさ、刺々しさを除けば、日本人には馴染みやすいものかもしれないということだ。
こういう映画を子供のとき見るとトラウマになって、変な映画マニアを生み出すことは間違いないので注意されたい。(私自身がそんな感じです)

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自衛隊は軍隊か?(その2)

合気道は攻撃する技を持たないから格闘技や武道とは異なる護身術である、というのは理屈が通っているように思える。

拳銃を持っておもむろに銃口を自分に向け煙草に火を付け、「これはピストルではなくライターなんだよ」と言われれば納得する。
しかし本物の拳銃でうるさい蠅を狙って撃って壁を穴だらけにして、「これはピストルではなく、虫除けなんだよ」と言われても、危なくて放っておけない。

あなたが狩猟用のナイフを飛行機の客室内に持ち込もうとして止められ、これは凶器ではない、狩猟用だと言っても無駄なことである。

あなたは伝家の宝刀を所有することができる。どれだけ飾りのように見えても、それが刀であることに間違いない。いざとなれば、曲者を切ることはできるのだ

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米倉涼子さんはナポリタン(イタリアン改め)

「ナポリタン」というのは、ナポリ市民という意味ではなく、スパゲッティのメニューの名前として。このスパゲティはナポリにはない、日本独自のものだ。
『肩越しの恋人』はどうにも個人的には面白くなく、見るのがつらくなってしまった(とは言え『女帝』よりはマシだ)が、一番気になったのは、竹内まりやの主題歌だったりする。「ああチャンスの神様は、前髪しかないから、通り過ぎたら、手に入れることは、無理よ」というフレーズが耳に付く。
「チャンス」は古代ギリシアの昔からあったようでもあり、しかしギリシア神話でこの神の話を聞いたことがない。
「チャンス」は神様と言うより、アレゴリーを良く表していると思う。アレゴリーとは何か、というのは、専門家に任せるとして、要するにこれは、人にたとえるといった表現技法ではなく、一種の思考方法なのだと思う。
私たちは「チャンス」とはどういう意味か知っているので、足に羽が付いていて素早くて、前髪しかないので後ろから掴んで引き止めることができない、と聞くと、これは「擬人法」であるといった、小学生の国語の授業でならった似非知識を持ち出したくなるかもしれないが、そうではない。

チャンスってなんだ?
さっきのがチャンスだよ。もう行っちまったよ。
もう行っちまったって?あっという間じゃないか。引き止められないのかよ?
無理だね。行っちまったら誰にも奴を捕まえられやしないのさ。後ろ髪を掴むことさえできないね。無駄だよ。そもそも奴には前髪しかないからさ。

教養のある私たちには理解しがたいことかもしれないが、恐らく、抽象的な概念を理解できない人々がいたのだ。それを理解させるための方法としてアレゴリー(寓諭)というものが発達したのだろう。彼らにとって抽象的な概念というものは、神秘的で、神と結び付けられた、というか、神とみなされた(ジョン・レノンいわく「神は概念だ」:[正確には「神は私たちが自分の痛みを測るための概念だ」])。(アレゴリーと宗教の関係についても専門家に任せよう)
これまた日本語を常用語とする私たちには理解しにくいことなのだが、言葉によっては名詞に性別があるものがある。この言語を使ってきた先祖たちが思考する際まず考えたのは、それは男か女かということだったのだろう。
例えば、なぜ「幸運」が女になるのかわからないが、幸運は女神として考えられた。
そして「好機」は少年だ。かなりパンクな奴と見た。

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駄熊猫的日記

2007/09/07(金)
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有給消化で休みとなったので、老駄熊猫を散歩に連れ出すことにした。
台風で夏が帰り遅れたかのような日差しのせいか、すべてが蜃気楼めいていた。水温計の針は垂直から右に大きく二目盛り傾き(110℃)、レッドゾーン前後で立ち往生していた。アクセルの踏み込んでも加速は鈍く、メーターの示す速度が信じられないほどスピード感が感じられなかった。これは事故傾向があるのではないかという不安を感じつつ、ようやく分岐路の混雑を免れ、速度の上がる直線道路に入り、存分にラジエターに風を取り込んで水温が下がった思うと、すぐさま渋滞に行く手を塞がれてしまった。
トロトロ進むのにどれだけかかったか覚えていない。良くない予感はこれだったのか。台風の残していった灰色の大きな雲の塊が強い日差しを遮らなければ、熱気にやられて眠気を抑えることができなかったかもしれない。(水温上昇を抑えるために、夏でも室内ではヒーターを入れているのだ。しかし、そこまで神経質にならなくても、ファンはしっかり回っており、水温系の針のレッドゾーンへの侵入を間際で阻止していたが)
予想外の渋滞の原因は、やはり事故だった。追い越し車線をパイロンで囲んで警官と警察車両が陣取る先には、捕らえられた羊のような軽のワンボックス、その先に、この事故の主役たるトラックが、犀のごとく横たわっていた。
追い越し車線を塞ぐように左側を下にして斜めに横たわったトラックの荷台から、積載していた砕石が通常斜線に溢れており、道路をまたぐ石の流れを作っていた。これを一台一台慎重に渡るのに時間がかかっていたのだ。
多くの足に踏みつけられた二条の筋の間で盛り上がった膨らみに腹を擦るのは意図されたものように思われた。この儀礼を通過した先には自由と解放があった。取り付いていた狐は祓われた。

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iPodをカセットステレオで聴くためのカセットアダプタで、ドックコネクタに接続するものを試してみたのだが、もともと古いカーステレオで、貧弱なスピーカーであるから、ヘッドホン出力に接続するものと音質的には大差ないように思える。また、このタイプだと、シガーライターソケットから充電することができない。
いずれにしてもアダプタにはそれほど問題はなく、問題は音のバランスが悪いことだ。運転席にいると、ほとんど左後方のスピーカーからの音しか聞こえない。

渋滞中のトロトロ運転で、妙にキーキー音がするのが気になったのだが、それがトラックのものなのか、自分の車からしているのか、確信が持てなかった。だが、次第にやはり自分の車である確信が強まり、渋滞を抜けてからそれがはっきりした。後で、少し、試してみたところ、ブレーキを踏み込んだときというよりも、戻した後に音がしている。ハンドルを切っても鳴るようだ。しかし、帰路の直線路ではほとんど問題なかった(とは言え、相変わらず、ある程度スピードで出ているときブレーキを踏み込むと右側にバランスを崩す...)。

次の整備の機会には足回りを点検してもらう必要がある。

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リージョンフリー

輸入DVDを鑑賞するのに、リージョンフリーかつ、PAL->NTSC変換出力機能をもったDVDプレーヤーを買いたいと思ったが、国内の有名メーカー製となると、予算的には1万~2万といったところで、買い得だとは思うが、その前に手持ちの機材で何とかできることはやっておきたい。

まず、以前使っていた富士通のノートPC LOOX T9 を調べたところ、内蔵の東芝製DVD-ROMドライブはすでに自分でリージョンフリー化していた。このノートPCはビデオ出力も付いているので、小さな液晶画面で我慢しなくても、大型画面のテレビに出力できるし、PCであるから、NTSC/PAL は問題にならない。DVD再生ソフトはリージョンを1に変更していたが、今回これもリージョンフリー化した。ただし、このPCの問題点は、CPUパワー不足と画面描画の遅さで、たまに画面がカクカクしてしまうことだ。
そこで、自作のデスクトップPCのDVDドライブもリージョンフリー化してみることにした。東芝のDVD-ROMドライブはうまくいったが、松下のDVD-RAMドライブはリージョンフリー化できなかった。DVD再生ソフトもリージョンフリー化。ビデオカードにビデオ出力機能が付いているので、これもテレビに繋いで見ることができる(というか、部屋が狭いのでテレビをモニタ代わりにせざるを得ないのだが)。この自作PCはCPUパワーもメモリ/ディスク容量も十分なのだが、問題は動作音がやかましいことに尽きる。静穏ケース、静穏ファンを使ったのだが。それでもDVDレコーダーに比べると遥かにやかましく、気になってしまう。
しかし、いずれにせよ、PCをケーブルで繋いだりするのは面倒だし、邪魔になる。そこで、もっと良い方法は、DVDのバックアップソフトを使って、別のDVD-Rに内容を焼いてしまうのである。このときリージョン制限が解除されるので、焼いたものは普段使っているDVDレコーダーで再生できるし、元ディスクは大切に保管しておけるわけだ。ただし、この方法は、アメリカ製のリージョン1でNTSCのDVDには良いのだが、ヨーロッパ製のリージョン2のDVDとなると、そもそもリージョンは日本と同じで問題ないわけで、問題はテレビが日本とは異なるPALということで、これを見るためにはとりあえずPCで再生するしかない。
バックアップしてDVD-Rに焼く際、PAL->NTSC変換してくれるソフトがあると良いのだが、これはあまり一般的ではないようで、ものによってはできなくもないようだが、なかなか操作がやっかいなようだ。
となると、やはり、「リージョンフリーかつ、PAL->NTSC変換出力機能をもったDVDプレーヤー」を購入するのが最も合理的だという結論に達する。

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カレーはやっぱりチキンカレー

というのは、SMAPの草彅剛が自閉症の青年を演じたドラマ「僕の歩く道」の主人公テルの決まり文句の一つであるが、スーパーの食肉売り場で、高価な牛肉には一切目もくれず、鶏肉か豚肉しか選ばない、自分で買い物に行かなければならない境遇の身にとって、この言葉は極めて身近に感じるのである。
しかし、再放送されたこのドラマを全話録画して見直してみると、何とも笑えてしまう。主人公の自閉症の青年の言動がおかしくて、思わず笑わずにはいられない。例えば、絶妙なタイミングでの「チクってんじゃねーよ」とか、『「ぷっ」すま』かと思ってしまった。「3秒ルール」でMEGUMIに一言大きい、とか、明らかに配役を利用したギャグと思えた。草彅君も楽しんで演技していたのではないだろうか。
こういうことを言うと眉をひそめる方が見えるかもしれない、お前は自閉症の人を馬鹿にしているのかと。あるいは、笑うのはかわいそうだ、と言う方もいるかもしれない。
そんなことを言うのは偽善的である、と私は反感を覚える。いや、そうではない、躾が良いのだ、彼らは。障害者をどのように見なければならないか、見るべきであるか、教えられたとおりに振舞っているのだ。子供の目は奇形を真っ直ぐに興味深げにまじまじと眺める。そして、そのことに痛みを覚える奇形がいて、彼の気持ちを慮って、見てはいけません、かわいそうな人なのだから、と同情を教え込む大人がいる。
しかしこのドラマの主人公は決して同情の対象として描かれていない。

チャップリンは、バスタブの赤ん坊に石鹸を持たせてみたらこれほど笑えるものはない、といったことを自伝に書いていたが、この笑いを誘うものは何だろう? 少なくとも、純粋な言動・行動は笑いを誘う、と言うことはできないだろうか。普段から捕らわれている常識や慣習を打ち破るものが、パッと目の前が明るくなるような、突然の緊張の緩和をもたらすというようなことがあるのではないだろうか。

石鹸をつかもうとしている赤ちゃんをあなたは無能だといって嘲って笑うわけではない。
とはいえ、「熊いじめ」で、吠え掛かってくる犬に抵抗する熊は、必死であって、打算のないこの行動もまた笑いを呼ぶのである。しかし、自由を奪われ、もてる力を存分に発揮できない、弱い立場に押し込められたこの猛獣は、その立場に立って考えてみると、とても可愛そうに思える。その痛みや苦しみを感じれば、最早笑うことはできない。
逆に考えると、痛みや苦しみを感じさせない言動こそ笑いを誘う。いや、笑いは、痛みや苦しみから人を解放するものであるのだから、それらが少しでも混じった途端、濁ってしまうのだ。

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自衛隊は軍隊か?

と問われれば、そうだ、と答える。鯨は魚ではない、哺乳動物である。そのように、自衛隊は軍隊でないと言い切れるのであれば、自衛隊は何だと言うのだろうか? 自衛隊は自衛隊としか言いようのない自衛隊そのものである、とでも言うのだろうか?
一つたとえ話をしよう。
読売巨人軍によく似た格好をした一団がいたので、あなたたちは野球チームですかと聞いたとする。すると、彼らは、そうではない、と答えた。
(ケース1)
そのはずなんですけどね。
監督の厳命で、攻撃できないんですよ。何のためにバットをもっているのか。守りだけじゃあ、試合になりませんよ。
(ケース2)
いいえ、私たちはフットサルのチームなんです。
どうにも困ったことなんですけどね。これじゃあ、フットサルなんかできやしませんよ。このグローブやバットが何の役に立つんですかね。仕方ないので、本業そっちのけで、野球ばかりやってるんですよ。

すなわち、(ケース1)は、間違いなく野球チームである。(ケース2)は、フットサルのチームのはずなのだが、実際的には野球チームである。

もし、自衛隊が、戦闘機や戦車や潜水艦や巡洋艦やヘリコプターや遠距離ミサイルや自動小銃や、云々を持たず、サンダーバード1号、2号、3号、4号、5号をもっているのであれば、自衛隊は軍隊ではなく、国際救助隊であると認めよう。

ただし、軍隊は必要かどうか、と問われれば、どう答えるか? それが問題だ。

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'07/09/03 ゴミ箱から拾ってきた映画『青い経験』 LOVER BOY (Grazie... nonna)

お色気姉さんエドウィジュ・フェネシュ主演のこの映画の邦題は少々混乱しており、同じフェネシュ主演で現在『青い経験』とタイトルのついているビデオやDVDは別の映画で、現在では『青い体験・禁じられた十代の好奇心』という邦題となっているらしい。しかし、TVで放送されたときのタイトルは間違いなくこれだったはず。ラウラ・アントネッリ主演の『青い体験』シリーズを意識して付けられたのは間違いないだろう。
これが放送された当時、フジテレビ系土曜夜9時に放送されていた「ゴールデン洋画劇場」では、映画雑誌「スクリーン」
のプレゼントがあって、何度か当選したことがあったのだが、他にも、放送予定作品を紹介した独自のパンフレットのプレゼントがたまにあって、私が当選して手に入れたものには、この映画が入っていた。そう、この映画もまた、私が相当多感な時代に放送され、非常に思い入れの強い作品なのである。後に再放送されたものをベータで録画して何度も見直したはずなのだが、残念なことに、重ねて別の映画を録画してしまったらしく、見られなくなってしまっていた。
この映画のDVDが海外のサイトで販売されていることは以前から知っていたのだが、字幕なしだし、値段も結構張るので購入を躊躇していた。しかし、販売元で売り切れになったようなので、この機会を逃すとしばらく入手困難になる恐れがあったため、他のサイトを探して思い切って購入してしまった。(ああ、また病気が始まったな、こりゃ...)

で、早速、見てみたところ、これまた、あっという間に終わってしまった。やはり一時間半ぐらいの長さで、何度も見たシーンの連続で、あれよあれよと言う間に話が進んでいく。少々心配だったのだが、字幕なしで英語の台詞はおぼろげにしか意味を理解できないのだが、これが例えイタリア語でちんぷんかんぷんだったとしても、全然問題なし。筋立てはしっかり記憶に刻まれているので、台詞が聞き取れなくても、大体どんなことをしゃべっているか理解できるのである。

お話は、南米から尋ねて来たおばあちゃんは若くてセクシーな美人で、要するに、おじいちゃんが若い嫁さんをもらったということですね、僕も、パパも、兄貴も夢中になってしまい、すったもんだあって最後に僕は...といった、初体験もの。見所は、たっぷりのフェネシュのヌードシーンでしょう。少々マニアックなところを言えば、この映画の音楽を演奏しているのは、ダリオ・アルジェント監督の恐怖映画でおなじみのゴブリンのメンバーたちで、作曲は、キーボーディストのクラウディオ・シモネッティの父親であるエンリコ・シモネッティである。(この辺りについても、上述のゴールデン洋画劇場のパンフレットで紹介されていた)

なお、このDVD、ビデオから起こされたものらしく、画質はほとんど期待できない。たまにブレたり、いかにもそれらしいノイズが入ったりするのが、ご愛嬌。まあ、昔ベータに三倍速で録画したものでも満足できるわけで、大した問題ではない。

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この映画を見て一つ気づいたのは、私はなぜ妻夫木聡が好きなのかということだ。これは、恐らく、私は妻夫木を、この映画の主人公や、アレッサンドロ・モモ(『青い経験』シリーズの主人公役の俳優、オートバイ事故で死亡)と重ね合わせ、そしてさらに自分を重ね合わせているからなのだろう。
妻夫木が初めて主役を張った、一般に評価の低かったドラマ『スローダンス』(これ大好きです、エビちゃんも出てます)は、初体験ものとして見直してみるとまた違って見えてくるはず...(うーむ、と言っても、それならば、相手が深津絵里というのは、ちょっとミスキャスト?)

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共犯者募集します!

いわゆる闇サイト殺人事件(愛知女性拉致殺人事件)について、例によって、ネットに規制をかけるべきだとか、匿名は許されるべきではないといった意見が聞こえてきているが、大いに違和感を感じてしまう。ネット犯罪と言うと、例えば、オークション詐欺などは明らかにネットを利用した犯罪であるけれども、この事件でインターネットが利用されたのは、事件の首謀者が共犯者を募集するのに携帯サイトの掲示板を利用したと言うことであって、それは事件のきっかけになっているかもしれないが、犯罪そのものはインターネットを利用したものではないのである。
夜道を一人で歩いていた女性を自動車に無理矢理押し込んで連れ去ったというのであれば、こんなことは、ひったくりによく利用される原付スクーターでは無理なわけで、であるから自動車は良くないとか、車は密室状態にならないよう屋根を付けてはならないとか、若い女性が夜道を一人歩きしてはならないから門限を市条例にするとか、日が落ちる何時間前には仕事をきりあげなければなせないとか、そういった規制の必要を訴える意見はこれっぽちも聞かれない。もちろん、こんな意見は、自動車がなければ、後ろから追突されて橋から転落し、子供を亡くすといった悲惨な交通事故は起きるはずもない、というのに等しく幼稚でしかないわけで、とりわけインターネットが悪者にされるのは、単にそれが「新参者」であり、人によっては馴染みが薄いという理由に過ぎないと思える。
衝撃的なのは、この犯罪は強盗が目的なのではなく、女性を誘拐して脅かすというゲームを楽しむために計画されたと思える点である。そしてエスカレートしたゲームのクライマックスは殺人となった...

犯罪者を結び付けた「闇の掲示板」についてよくよく考えてみるに、掲示板の仕組みや投稿内容を諸悪の根源とするのは無理があり、実は、そこには問題のすり替えがあることがわかる。
そもそもインターネットの掲示板というものは、インターネット利用者であれば誰でもアクセス可能であって(もちろん、会員限定のものもあるが、一般的に、会員といっても特別な資格を必要とするわけではない)、そこにどんなことが書かれているか調べようと思えばいくらでも調べられるのである。また、匿名だといっても、アクセス記録を調べればアカウントから誰の利用か突き止めることは大抵できるはず(もちろん、このような追求を免れるために、他人のアカウントを不正に利用する「なりすまし」や、インターネットカフェのような不特定多数が利用する接続環境を利用するといった手もないわけではないが)である。現行の法律でも警察が接続業者のもっているアクセス記録を証拠として押収することは可能である。通信の秘匿性といっても、それは電話の盗聴やメールの盗み見は違法だということであって、自由に読み書きされているインターネット掲示板の書き込み内容にそもそも秘匿性があるわけがない。
つまり、やろうと思えば、インターネットに溢れているそういった怪しげな書き込みを徹底的に検索して、犯罪に繋がる恐れがあると思われる内容があれば、書き込み元を調べたり、場合によっては、興味をもった素人を装い、返答を出して、書き込み主と接触するといった捜査もできるはずである。
しかし、サイバー犯罪対策といっても、まだまだ進んでいないのが現実なのだろう。恐らく、お堅い警察組織では、PCやネット利用も素人並みで、PCを持たせればWinnyでのファイル交換に精を出して、内部情報を流出させるのが関の山というわけだ。しかし、接続環境さえあれば、どこからでも世界中の情報を入手できるのがインターネットの良い点なのだから、警察官も全員がメールアドレスを持ち、インターネットを利用するぐらいの気概があれば、田舎で事件もなく毎日退屈しきっている警官でも、現場に居合わせることなく、いくらでもサイバー犯罪撲滅の役に立てるはずだ。
大きくなって、小回りの聞かなくなった組織は、事なかれ主義で、何か起こらなければ動こうとしない。ネット上でおおっぴらに犯罪が計画されていても、何もできない警察は、ストーカーへの不安を訴えても取り合わず、何かが起こらなければ動けないといって、事件の発生を許してしまった警察と同じ警察なのである。

犯罪の共犯者を募集するのに、駅の掲示板にそれを書いたり、新聞に広告を出すといった人目につく方法を取るのは愚かであり得ない話であって、インターネットの掲示板でも同じようにそれが人目に付くことが一般的になれば、このような利用はほとんどなくなるだろう。そういった書き込みを見つけたら簡単に通報できるような仕組みを整備するとか、ランダムに怪しげな内容を検索して評価するシステムとか、逆に、よく利用される検索エンジンで、キーワードに関連した広告を出す代わりに、怪しげな書き込みを同時に検索させて、多くの善意の人々の力を借る(「ドラゴンボールZ」の元気玉みたいだな!)とか、悪を締め出すための工夫は色々とあるのではないか。
便利なものは犯罪者にとっても便利なのだ。だからと言ってその便利さを捨てることはない。その便利さをさらに上手に活用して、犯罪の芽を摘み取ることこそ課題としなければならない!

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サエコも出てました

NHKで「できるOLたち」を描いたドラマ『グッジョブ』を再放送していたので、この機会に録画しておいたのだが、このドラマの中で、松下奈緒演じるウエは「OL仮面」と呼ばれている。その同僚ミナミを演じているのが、市川実日子で、市川実日子と言えば『喰いタン』であり、個人的にはそれ以上に映画『キューティハニー』のなっちゃん、ということで、ここから連想が働いて、松下奈緒が同じ永井豪原作の「けっこう仮面」に見えて仕方ない。
実現はまずありえないがっ!

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'07/09/01 ゴミ箱から拾ってきた映画『サンゲリア』 ZOMBIE2

最近それほど映画を見ておらず、録画したDVD-Rは溜まる一方、何を録画したかわからないまま、同じものをまた録画したりしている。一時期買い込んだ中古ビデオの山は、一覧テキストがあるので、何を持っていなくて何を持っていないかは、大体わかる。DVDパッケージはまだ数が少ないので見渡せば何とかなる。しかし、DVDを買うべきかどうするか悩むとき、テレビ放送されたものを録画したかどうか調べるのが大変なのだ。この点に関しては、誰かボランティアで自分の代わりに録画内容のデータ化をやってくれないか、と常々思う。しかし、そもそも、見もしないものを録画して溜め込むことに何の意味があるのだろうか?
「劇的改造ビフォーアフター」で大学教授夫妻が研究用の蔵書を収納するためにリフォームを行っていたが、彼らの研究を引き継ぐ者がいなければ、その蔵書にどれほどの意味があるのか大いに疑問に思ったものだが、自分のやっていることもまったく変わらない。そういうことを続けるのは人間の愚かさなのか、愚かであっても続けずにはいられない悲しい性なのか、死の暗い影へのささやかな抵抗なのか、生きるのはこういうつまらないことの積み重ねであって、悟りを開かない限り迷妄からは逃れられないということか。
またしても、「気の迷い」と思いつつ、DVDの買い込み病が再発しかけている...

* * *
標題の『サンゲリア』であるが、その手の映画(ゾンビもの)ファンには定番であり、名作とされており、今更説明の必要のない作品だろう。なぜ、この映画をまた見たくなったのか自分でもよくわからない、というか、DVD-R焼きなどの作業をしているとき、面白いテレビ番組を放送してなく、普段使ってない古いDVDレコーダのHDD録画したものを再生してみたがこれまた面白いものがなく、DVDをかけてみようか、かといってまだ見てないものを斜め見するのもなあ、と思って選んだのがこれだった、ということである。

まず、見直して感じたことだが、短い! あっという間に終わってしまった感じ。実際の時間は一時間半強で、娯楽映画の標準的な長さで、観客を退屈させない最良の長さと考えられている。この映画は特に無駄がないと言うか、よく練られていると言うか、見せ場がうまく配置されているか、娯楽映画として実に計算高く作られているように思える。この映画のネタ元になった、ゾンビ映画ブームを生んだ記念碑的作品であるジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』と比べてみると、かなり印象が異なる。
米国公開版の『ゾンビ』は二時間強あり、これを初めてビデオで見たとき、テレビで見たものと別物に思えた(ゴブリンの印象的な音楽が使われていないのも大きいが)。テレビ放送されていたものは、これより短く編集されたイタリア公開版をさらにカットしたもので、長さは一時間半強である。面白いことに、テレビ放映版の『ゾンビ』は『サンゲリア』に近い印象がある。ロメロは作家性の強い映画監督であり、彼のゾンビ映画にはそれぞれ興味深いテーマが見られるのだが、これを一時間半ほどにカットすると、まったくの娯楽映画になってしまうということだ。つまり、ロメロの映画は、間違いなく、娯楽映画の文法にのっとっており、それを土台にしているわけだ。逆に、ルチオ・フルチ監督の映画のほうは、娯楽映画に徹していると言える。

ロメロの『ゾンビ』"DAWN OF THE DEAD" のイタリア公開題名が "ZOMBIE" であり、「勝手に続編を作る」というイタリア映画界の伝統に則って、『サンゲリア』の原題は "ZOMBIE2" である。邦題は配給会社が付けたもので、ダリオ・アルジェント監督のオカルト要素の強い恐怖映画『サスペリア』が大ヒットしたところから、それにあやかって、それに近い意味不明な邦題が色々考え出されたようだ。
この辺りの事情は、洋泉社「70年代映画懐かし地獄」"東宝東和宣伝部、伝説の..." に詳しく、『サンゲリア』という邦題は、「血の酒と言われるカクテルのサングリア」を基にしたとのこと。ちなみに、飲料メーカーの「サンガリア」とも非常に近いのだが、こちらの由来は、杜甫の詩「国破れて山河あり」なのだそうだ。
年代がバレるが、この映画は、私が非常に多感な時代に公開されたもので、当時は夏になると、夏休みに公開される恐怖映画の紹介番組をよくやっていて、『サンゲリア』の目玉木端刺しシーンは、ギリギリのところでカット、その後どうなるかが大いに話題になったものだ。

さて、話を元に戻して、娯楽性の徹底、ということで言えば、ロメロのゾンビが、肌を青塗りにしただけのように見えるのに対して、この映画に出てくるゾンビたちは、死体が蘇るというのならば、墓場に眠っている腐乱したやつだって蘇っていいはずだとばかりに、腐りきってもはや顔つきもわからなくなってしまった死体が、墓場からむくむく起き出すのである。しかし、よく考えたら、腐り切ってボロボロになっているわりには、顎や歯だけはしっかりしていて、生きている人の喉を噛み千切るというのはおかしな話だ。そういうことを言い出すと、そもそも、この蘇った死者どもは、生きている人を食らうのだが、食ったものはどうなるのだろうか。消化して栄養にするとでも? 食うのなら排泄もするのか? などなど疑問が沸騰するわけだが、そういったことは時間旅行のナンセンス同様、わかり切っていても、作り話を楽しむためには目をつぶらないといけない(詩人キーツの言うところの Negative Capability、いや、こういうことを言うと英文学者に馬鹿にされるのだが!そんな低俗な話ではない、と言われるね)ということだろう。

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「恐い」映画と言っても、その恐さは一様ではなく、恐怖は大雑把な概念に過ぎない。(詳しくはスティーブン・キングの著作でも読んでもらうとして...)
ゾンビ映画の怖さは、噛み付く犬に追いかけられるようなもので、実際『ゾンビ』のリメイクである『ドーン・オブ・ザ・デッド』には、それに近いシーンがあったと思う。深夜にトイレに行くのが怖いというときの怖さとは異なるものだろう。
それに加えるに、気持ち悪さ、汚いものへの不快感、などが混じってくる...
私は怖さの本質を見極めたいとか、恐怖を分類したい(そういったことはキングに任せよう)というよりも、言葉は場合によっては不十分であり、物事を必ずしも的確に表現できないということを言いたいのである。例えば、カレーとワサビが同じ「辛い」という言葉で表現されるのは無理があると思う。
一口に恐怖映画が好きだと言っても、どんな怖さなのかが問題で、人によってそれが気に入るかどうかはかなり異なるだろう。少なくともこの映画が私の口に合っていることは間違いない。

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ベタ鉄板


「ベタなギャグ」と言う場合、「ベタ」というのはどういう意味かと言うに、西川きよし師匠がのたまっていたところによりますと、これは左官から来ているものでベタ塗りのベタだということ、平たく伸ばすように塗る、という基本中の基本であって、そこから転じて、簡単とか、誰にでもわかりやすい、という意味になるのだそうだ。
意味を強調するために重ねて「ベタベタ」と言うことがあるが、これは「糊で手がベタベタになった」というときの「ベタベタ」との混同があるようだ。

「鉄板ギャグ」の「鉄板」とは、必ず笑いが取れる、という意味らしいのだが、どのように転がるとそういう意味になるのか疑問に思っていて、これは「定番」から来ているのではないか、と考えていたのだが、どうもそうではないらしい。
鉄板は硬いので、そこから「手堅い」と言ったときの堅さと掛けて(あるいは混乱が生じて)、確実な、という意味で、ある種の業界で使われていたらしい。馬券を買うとき、「この馬は鉄板だ」とか?
堀北真希主演のドラマ「鉄板少女アカネ!!」以来、「定番」が「鉄板」になったわけではないようだが、この二語に多少の混同がないとも言い切れないように思える。

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裸の大将マラソン記

24時間テレビで高齢の萩本欽一がマラソンに挑戦するというので、興味をもって最後のほうだけ見てみたら、ゴールまで残り少しというところで、ずっとヨタヨタ歩いているばかり、そのペースから放送時間内に間に合わないと思われた。番組終了時刻後、またテレビをつけてみると、まだ番組は続いていて(次の番組を潰して延長したらしい)何とか武道館にたどり着いていた。
この番組のマラソンは、盛り上がりを考えて、一定のタイミングでゴールインする必要があり、萩本欽一ほどのタレントであれば、十分それを心得て、それをやり遂げるだろうだろうと考えていた私にとってそれは意外な結果だった。年齢だけでなく、そもそも、ヘビースモーカーで運動不足の「大将」には最後まで走る力はなかった。それを見越して、あらかじめ、次の番組を潰して、放送を延長できるように仕組んでいた日本テレビは上手だった。最高の盛り上がりを仕切ったのは、数々の番組で高視聴率を叩き出してきたタレント萩本欽一ではなかった。「大将」がテレビ局にいいように使われたこと、それを彼が受け入れたことに私は大いに驚かされた。

欽ちゃんの走りを見て、やればできるのだ、と勇気を与えられた、というのは、大いに結構なことだけれども、同時に大いに偽善的でもある。私はこのことを説明するとき「海亀の産卵」を例に出すことにしている。要するに、あなたを感動させるものが、必ずしもあなたと同様に感じているわけではないということだ。
普段走ったことのない自分が、ちょっとそこら辺をジョギングしただけで、これほどまでに走れないものか、と自分の能力のなさに愕然とさせられる。同じように「大将」は、自分の無能さを思い知らされ、自分の立場がどういうもので成り立っているかを嫌と言うほど思い知らされ、詰まるところ自分は「裸の大将」でしかない、という鋭い真実を突きつけられた。同行する番組スタッフに脅迫されるかのように、信号のたびに立ち止まりながらも、前に進むしかない、無残な姿がそこにはあった。

* * *
官僚の天下りについて、将来のエリート候補たちが一様に否定的な意見を述べる中で、一人だけ、異なった意見の持ち主がいて、官僚が天下るのは、彼らが高い能力をもっており、優秀だからだ、と力説する奴がいた。いったい、天下り官僚たちはどのような能力を持っているというのだろうか? 70Kmのマラソンを、途中何度か休憩を入れながら、平均的なペースで走り切る能力だろうか? 誰よりも速く確かに電卓で計算する能力だろうか? 単身赴任の一人暮らしでも、栄養バランスの取れた食事を毎日自炊できる能力だろうか? それとも、... こういったことが何一つできなくても、天下り官僚の尊大さはいささかも揺るがない。
馬鹿なことを言ってはいけない、官僚が持っているのは能力ではなく権力である。官僚が民間で好待遇を受けるのは、その有能さへの期待からではなく、受け入れ側の優遇されたい心の弱さ、卑屈さにあるのは誰だってわかっている。こんなこともわからないエリート候補生こそ、立派な官僚になるに相応しい。

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