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「脳死は人の死」 移植法A案成立について

脳死は人の死か?という問いについては、すでに個人的な回答を示しており、私の立場をおさらいすると、脳死はあくまで「脳死」であって人の「死」ではない、それはケンシローの決め台詞「おまえはもう死んでいる」状態であり、死に至る特殊な一局面である、しかし、だからといって脳死状態にある人の臓器を移植手術に提供することを否定はしない、というものである。

求められているのは、人の死の概念を再定義することではない。臓器移植の機会を増やすことである。
問題は、脳死状態にある患者から移植用の臓器を抜き取ることで死に至った場合、それは殺人になるのではないか、という懸念である。もし脳死が人の死であれば、その人はすでに死んでいるのだから、殺人の罪を犯すことにはならない。それだけのことではないだろうか?

テレビを見ていたら、魚の特定部位に針を打つことで眠らせ(麻酔状態にし)、鮮度を保ったまま空輸する方法を確立した方が紹介されていた。脳死とは、一面、この針のようなものだ。(一面、と言うのは、この魚の針麻酔の場合は針を抜けば魚は甦るが、脳死の場合、人工呼吸器を外せば患者は生きていられない)
脳死のおかげで、新鮮な、活きの良い臓器が手に入る。
あっさり、このことを認めるべきではないだろうか? 脳死を人の死にしたいのは、ただ、それだけのためであると。
脳死者はまだ死んでない、死んだも同然というだけだ。だけど、死んだも同然なんだから、早く、使えるものを使ってしまわないともったいない、と。それがどんなに不愉快で、罪深く思えようとも、それこそが真実である。

考えてみたまえ、もし、意図的に人を脳死状態に陥れることが可能になったらどうだろう。新しい裁判員制度で「脳死刑」判決を量産して、移植待ち患者に提供できるようになるかもしれない。ゾっとする。人はそれほどまでに罪深い。

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'09/07/10 ゴミ箱から拾ってきた映画『ドゥーム』(米05年) DOOM

番組改編期でつまらない番組ばかりだったので、録画しても見てない映画が圧倒的多数を占めるDVDコレクションの中から、たまたま目について見てみたのがこれである。
目を引くのは主役を演じるのが人気プロレスラー「ロック様」であるということ。そして最も興味をそそられるのが、PCゲームを原作とした映画であるという点である。
ゲーム原作の映画は最近では珍しくなく、『マリオ・ブラザーズ』のような珍奇作(?)もあれば、『ストリートファイター』や『モータルコンバット』のようなお気に入りもある(『バイオハザード2』も面白いのだが、この監督の悪い面が強く出すぎているという個人的評価)。『ハウス・オブ・ザ・デッド』は出来の悪い作品だとしても、いかにもゲームらしい映像処理が見られるところが記憶に残った。この映画の場合、原作が "DOOM" となると、興味の焦点は、このゲームがいわゆるFPS (= First Person Shooting 一人称シューティング)にジャンル分けされており、それがどのように映像化されているかというに点に絞られる。「一人称」とは、ゲーム画面は主人公の視点で描かれるということである。映画でもこの手法を部分的にでも取り入れたものは数多く存在し、その中でも特に、俳優ロバート・モンゴメリーが自ら監督した、ハードボイルド探偵フィリップ・マーローものの『湖中の女』(米47年)は大胆に「一人称」を取り入れた実験的な作品として名高く、ほとんどが主人公の視点から描かれている(らしい。未見。いや、見たかもしれないが、記憶に残ってない)。

で、映画版『ドゥーム』はどうかと言えば、そんな要素はとんと見られない。このゲームは実こういう話だったのか、と関心をもったのは、シューティングゲームを楽しむのにストーリーなどほとんど無関心だったからである。それはよい。しかし、ストーリーがはっきりすると、なんともつまらないというか、ありふれているというか、B級まっしぐらでしょぼい話だ。演出面では、とにかく画面が暗く、かつ、敵の動きが速すぎて、何が何だかわからないのオン・パレード。見続けるのがつらくなってくる。
この手の演出は、リドリー・スコット監督の『エイリアン』が教科書・お手本となっているようだが、それをほとんどパクッたと言うべき『プレデター』がやっと及第点といったところで、駄目駄目ばかり。どれだけ予算をかけて精巧なセットを作ろうが、気味の悪いクリーチャーを登場させようが、演出が駄目なものは駄目。
ようやく出ましたFPSゲーム調画面だけは盛り上がる。個人的にはこの映画一番の見所だった。しかしこれは長くは続かず、クライマックスは、アメリカ映画伝統の「どつきあい」と来た日にはあきれ果ててしまった。ロック様の強烈なキャラクターには文句の付けようがないのが唯一、この映画の救いではないだろうか。

ゲームの面白さをいかに映画に取り込むか、映画的表現に変換するかという点において、成功している作品はまだない、という結論。

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エコな話「アイドリング・ストップ」

エコエコとかしましい昨今だが、これは決して最近始まったことではなく、地球温暖化対策としてバスがアイドリング・ストップを行い出したのは、かれこれ二十年以上前だったと思う。最近はバスに乗る機会はないのだが、当時、信号待ちで車内に静寂が広がるのは、慣れるまでは不思議な感じがしたものだ。
そんなとき、夏、ある行事の集合で、車で待ち合わせ場所にやってきた知人が、待っている間、アイドリングし続ける車の中に籠っていたので、件のバスの話をして、なぜアイドリングしていたのかと聞いたところ、自分の身のほうがかわいいからだ、という返答が、すぐには理解できなかった。外は暑いので、車内でエアコンをかけて涼んでいたということらしい。
後で知ったのだが、この知人の職業では、そのようなことは習慣的に行われているようだった。実際、そういう現場を目撃したことは一度しかないのだが、アイドリングし続ける軽トラックの狭い室内で二人のあんちゃんがコンビニ弁当を食らっている姿には強く印象づけられた。
この行為は憎むべき反エコ、ではあるが、炎天下の肉体労働の昼休み、昼食のとき涼みたい気持ちは痛いほど理解できる。風通しの悪いコンクリートのビルの空調の効き過ぎたオフィスで、外との温度差で夏風邪に悩まされるサラリーマンに、彼らを非難する資格はない。(都会のビルは、実のところ、軽トラとは比べ物にならないほど反エコだ)
彼らに与えられるべきものは非難ではなく、疲れた体をリフレッシュしてくれる、ささやかな休息場所だろう。格差社会には優しさや思いやりが欠けている。

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