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死刑は廃止すべきか存続すべきか?

という問題は、自分の中で立場を決めかねているものの一つである。
廃止論者の言う根拠も、存続論者の言う根拠も、どちらも説得力に欠けていると思う。例えば、...

(賛成)死刑には犯罪抑止力がある。
実際のところ怪しい。
(賛成)冤罪の恐れがないとは言い切れない。
では、死刑確定者が自ら犯罪を認めている場合はどうなるのか?
また、万が一冤罪の場合でも、終身刑なら良いのか? 程度の問題?
(賛成)犯罪被害者遺族の心情を察すれば、...
刑罰は、被害者遺族の慰謝を目的としているわけではないだろう。
(賛成)他人の命を奪うという取り返しのつかない行いは「死んでお詫びをする」「自らの命をもって償う」以外ない。
すなわち、罰というのは、罪を犯したものが、相応の償いをするものである。
だが、死ぬことは償いになるのか? 他の償い方があるのではないか? むしろ、死は償いの放棄になるのではないか?

(反対)死刑は国が行う殺人であり、犯罪である。
では、禁固・監禁なら良いのか? 程度の問題?
(反対)犯罪が発生するのは加害者だけの責任ではない。
としても、それが死刑が避けられるべき根拠になる理由がわからない。
例えば、今話題の「耳かき店員殺害事件」の場合、この事件の経緯を知ったとき、そこまで「ボる」か? エゲつない商売をする店もどうかしている、まさしくエクスプロイテーション、そりゃあ、トラブルも起こるわな、と思ったものだ。かと言って、店は、一応、真っ当に商売していたということになっており、何らかの刑事責任を問われる筋合いはないわけだ。
これで、店側や(もしかして被害者本人にも)責任が問われるというのであれば、その分、減刑されるというのは納得できるのだが...

結局のところ、一方は、
 このような残虐な犯罪を犯した人間がのうのうと生きているのは我慢がならん、(私は人殺しができます)
もう一方は、
 人が人を殺すことはどうあってもしてはいけないことだ、(私は人殺しはできません)
と言う立場で対立していることに尽きる。
これは、海豚は食べ物だというのが当たり前の地域の住人と、そうでなく、海豚は人間の友達だと思って育ってきた人たちの対立のように、容易には埋め難いものだろう。

だが、双方には共通項がないわけでもない。
被害者遺族が裁判に際して「極刑を望む」と発言することはよくある。この「極刑」とは何なのだろうか? 死刑以外にありえるのだろうか?
江戸時代のような、「市中引き回しの上、獄門の刑に処する」といったものはありえない。拷問したり、晒しものにすることはない。どんなひどい犯罪者を罰するについても、そのような行為は人として許されるべきものではないという認識、了解がある。
だから、死刑といっても、死刑囚は(恐怖による精神的苦痛は別として、肉体的には)ほとんど苦しむことなく処刑される。
すなわち「線引き」の差である。
賛成派と異なり、反対派にとって死刑はすでに残虐非道な行為である。だが、どちらにとっても、終身刑はそうでない、というわけだ。

このように考えると、個人的には、「汝殺すなかれ」は絶対的な行動指針であるとは認め難いゆえ、死刑存続論側に傾くことになる。(力で敵を撃退せざるを得ない状況は、大いに発生する恐れがあると思われる。この世はユートピアではない。あなたは暴力反対ゆえに問答無用の暴漢にむざむざ自分や自分の愛するものの命を奪われることを潔しとするのか? これはあくまで「線引き」の問題であって、死刑が有用であるかどうかという観点によるものではない)
しかしながら、賛成にせよ、反対にせよ、死刑の代わりに終身刑とはこれいかに! まったく無意味としか思えない。
更生する見込みのない(どれほど彼の内面で変化が生じたとしても何も変わらない)犯罪者を生き永らえさせてどうしようというのか? 殺すことができないから飼い殺しにするより他にないということでしかないように思われる。
死刑とは、不要だから捨ててしまえ、ということであり、人でありながら人とは認められない、その命は無価値である、害虫のように駆除されるということである。その判断が難しいのが問題であることは十分承知しているが、難しいからといって死刑を放棄して、終身刑にすればそれで済むという問題でもないと思う。
個人的には、死刑を一律否定する立場には与しえない。
死刑囚にも人権がある、と言うのは結構である。そして、死刑とは人権を侵害する行為であることは間違いない。だが、それを理解した上での死刑があってもよいと思う。

最も良いのは、死刑囚が自らの意思で死を選ぶこと、すなわち彼らに自殺する権利を与えることだと思う。これだと、他人を人殺しにしなくて済むからだ。昔、武士は自ら切腹した。人権的にも、死刑囚に尊厳死を認めるのは望ましいと思う。だが、自ら死を選ぶ勇気がない者も多々あるだろう(恐らく他人の苦痛に無関心な者ほど自らの死を恐れると思われる)。そこで、次に良いと思うのが、死刑の方法として、わが国で行われている絞首刑ではなく、「脳死」刑を行うことだと思う。そんなことが可能だとして、人為的に脳死状態に陥らせた死刑囚の臓器を移植用に提供するのである。ただ殺されるより、それによって人の役立つのであれば、少しでも罪を償うことになるのではないか、と思うのである。(中国では死刑囚からの臓器移植が実施されているらしい...) 自らの犯した罪に対する死刑という量刑に同意しない犯罪者は、そもそも生命という最大の権利を強制的に奪われることになるのであるから、本人の意思と無関係に臓器提供に同意したものとしても問題ない、と考える。

* * *
なお、最後に、極個人的な見解を付け加えるならば、「耳かき店員殺害事件」の犯人が死刑にならなかったのは「悪くない判決」だと思う。また、オウム真理教の元教祖が死刑判決を受けたことに些かなりとも異議を唱える余地はないと思う。

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