水泳選手マイクル・フェルプスの集中力

豪州の超人スイマー、イアン・ソープを超えたと言われる最大のライバル、米国の怪物マイクル・フェルプスの強さの秘密は、まず、よく練習してよく食べてよく寝ることだそうだ。そして独特なのが、スタートぎりぎりまで、ヘッドフォン・ステレオで音楽を聴いていること。コーチは「彼はどんなプレッシャーのもとでもリラックスして、集中することができるんだ」と言う。そのために、ヘッドフォン・ステレオは欠かせない道具となっているようだ。
国内の学生の大会で、そんな選手がいたら、ステレオを取り上げられてしまい、以後禁止とされてしまいそうだ。そこで意地悪な想像をするに、決勝レース直前にステレオが故障してしまったら、マイクルの速さは鈍るのではないかと。で、彼のライバルのコーチがこっそり細工をすることもあるかもしれない、と思わせる。

中学の担任は、音楽を聴き「ながら勉強」するな、身が入らないから、と言っていた。しかし、ある生徒は音楽をかけるのをやめたところ、さびしくて仕方がないので、歌いだしてしまったそうだ、と付け加えていた。しかし、お気に入りの音楽を聴くことで集中力を高めることができるのは間違いない。私もプログラムコードを書くような場合は、ヘッドフォンで音楽を聴きながらのほうが、はるかに効率が高まるのだ。集中力が高まり、仕事がはかどってくると、音楽は聴いているようで聞こえなくなる。それはカーテンのように、周りの雑音を遮ってくれる。歌いだしてしまった生徒は、よほど勉強したくなかったのだろう。もともとやる気がなければ、他のことに心を奪われるというだけのことである。

マイクル・フェルプスが上述したような妨害工作を受けた場合、彼は最初相当戸惑うに違いない。しかし、恐らく、決勝で勝つのはまたしても彼だろう。そこで、彼は気づくのである。お気に入りの音楽は、自転車の補助輪のようなものだった、知らないうちに、自分はもう補助輪なしでも自転車に乗れるようになっていたのだ、と。

モーツァルトは頭の中だけで演奏できたし、バッハやベートーヴェンも耳が聞えなくなっても作曲活動を続けることができた。通勤電車の中で、ヘッドフォンからシャカシャカ音が漏れ聞こえるのは嫌な感じだ。どうせ、外に音が漏れるなら、気に入らない曲でもちゃんと聞えたほうがまだマシだ(けど、通勤電車でカラオケはしないでね、そんな奴いないか)。しかしながら、そもそもそんな機械は必要ない。お気に入りの曲は、頭の中のステレオで鳴らすことができるのだから。これだと誰の迷惑にもならない、どんなに周りがうるさくてもちゃんと聞える。

人間が作り出した機械や道具には、われわれの内なる能力を外在化したものがある(もちろん、車輪のようにそうでないものもある)。人は心臓を模して内燃機関を産み出し、頭脳を模して電脳(コンピュータ)を作った。だが、機械に頼るばかりでなく、その元になった自らがもつ能力を鍛えることを忘れてはいけない。

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双子幻想あるいはクローン奇譚

双子の多いマンションがあるそうだ。高圧電線の影響云々、環境にその要因があるのだろうか。そこで思ったのだが、容姿がそっくりな男女の双子がいたらどんなに素敵だろうか。色々想像を逞しくするに興奮してくる。

村上春樹氏はそのエッセイで双子と一緒にデートしたいという想いを例によって生ぬるく語っておられるが、双子と言っても、肝心なのは二人の姿かたちがそっくりなことであって、そうであれば、双子でなくて単に兄弟であるか、別に他人だって構わないのだろう。しかし、双子には、兄弟やましてや他人にはない、不思議な心のつながりがあると聞く。これも興味深いものがある。双子は同じことを考えるのだろうか。好みも同じ、することも同じなのだろうか。一方が調子を崩せば、他方にも影響するのか、などなど。

双子には、一卵性と二卵性がある。一卵性の場合、同じ遺伝情報をもっているので、双子はそっくりの容姿になるが、二卵性の場合は、兄弟としての類似が認められるに過ぎない。つまり、そっくりになるには一卵性でないといけないのだが、遺伝情報が同じということは、性別も同じということになる。よって、一卵性で性別の異なる双子はない、ということになる。残念。
と思いきや、現実には、同じ遺伝情報をもつ男女の双子が存在するらしいのだ。これは通常の一卵性とは異なり、仕組みはまだ解明されていないそうだ。よかった、よかった。

性別の異なる双子は小さいときは男女差が小さいから、おちんちんがついているかいないかが当人同士での最大の関心事になることは間違いない。思春期になると、体つきが微妙に違ってくるのだろうか、それとも両者とも、微妙に両性的になるのだろうか。話としては前者のほうが面白い。顔つきはそっくりなまま、体つきは微妙に男女差を示しているというほうが。お互いの体を見せ合ってそれを確認しあったりして。しかし、後者でも面白いかもしれない。好きになる他人も同じで、男側が他の女を好きになった場合も、女側が他の男を好きになった場合も、別性側も同じように好きになるので、相手が必ずしも望まない同性愛的関係が生じてしまうとか。要するに男女の差がないと面白くないが、はっきり違いがわかってしまっても困るということですね。まったく、興奮させられる。
(まるで、プラトンの『饗宴』で語られるアンドロギュノスのようだが、そうすると、双子の近親相姦で、悪趣味な内輪話で終わってしまうので面白くない)

双子は、他人には見分けがつきにくいことから生じる状況が話のネタになるのだが、それより興味深いのが、双子同士の心の交流である。双子は互いを他人同士と見ているのか、それとももう一人の自分のように見ているのだろうか。恐らく、現実的には前者だろう、つまらないが。自分に「隠れ双子」がいて、一人が仕事や勉強をしている間、もう一人が自由に遊んでいるというのはどうだろう。すなわち二人で一人である(話はドッペルゲンガーに近くなるが、片割れが知らないところで悪さをしてもらうのは困る)。しかし双子はあくまで別人である。互いの立場を交代すれば、仕事を分担することはできるが、給料は一人分しかもらえないし、勉強も互いに半分半分しか身に付かないから、後で互いの学習したことを摺り合わせて補完し合う必要が生じる。これでは逆に面倒なだけかもしれない。では、クローン人間ならどうだろう。(苦笑、馬鹿げた想像は留まることを知らない)

クローン技術は、現代のフランケンシュタイン博士である。これは神への冒とくだというわけだ。クローン技術の人間への適用はほとんどの国が禁じている。かようクローンには暗い影が付きまとっているが、昔見たあるテレビムービーは、それをあっけらかんと肯定的に描いていたので、驚かされた覚えがある。調べたところ、どうもその作品は、

『複製人間クローンマスター』(米78年) THE CLONE MASTER ドン・メドフォード監督、出演 アート・ヒンドル、ロビン・ダグラス、エド・ローター、ラルフ・ベラミー

のようだ。あらすじは、クローン技術を研究する科学者が、自らを実験台にし、見事に成功、自分のクローンを6人(?ぐらいだったと思うけど)作る。彼とクローンたちは一致団結し、彼の技術を狙う組織の企みを粉砕する。最後に、クローンたちは、それぞれ別の格好をして、世界各地に散らばっていく、といったもの。感心したのは、コピー元の本人とクローンたちは互いにテレパシーのように知覚や思考を共有できるという設定だった。映画の話なので現実性には乏しい(なぜクローンが現在の本人と同じ状態まですぐに成長するのか理解に苦しむ)が、もしこれが実現するならば、個人的にはまったく理想的に思える。複数人の自分がいて、どれも自分だという状況はどんなものか。それはまるで「人間ザッピング」である。テレビのチャンネルをガチャガチャ切り替えるように、意識が異なる場所にある異なる、けれども同じものである体を駆け巡るのだ。これでは落ち着きがなさそうだが、しかし、これはマルチタスクであって、一つのコピーだけをフロントジョブにすることもできる。最も重要な局面にある自分に意識を集中することができるのだ。
(ちなみに、アンドレ・ブルトンは彼の散文作品『ナジャ』の中で、「一人の支那人が、なにやら不可解な自己増殖の術を発見し、単身、いや単身と同じ数百万のコピーとなってニューヨークへなだれ込む」という、『蛸の抱擁』なる映画をお気に入りとして紹介しているのだが、これは彼独特の「複数的ナルシズム」を表すものと評論されている)

でも、自分が何人もいたら、それぞれが独立しないと住むところに困るし食費も大変だ。となると、もっといいのは、分身だ。自由自在に自分の分身を繰り出し、収束させることができたなら。ここまで来ると単なる絵空事。教訓、他人を愛しなさい。

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脳死は人の死か?についての極めて個人的な考察

参考ページ:NHK「週刊子供ニュース」今週のわからん
脳死って何? '97/04/27 放送
http://www.nhk.or.jp/kdns/_wakaran/97/0427.html

脳死は人の死か? まず、脳死は死ではない。脳死という死とは異なる概念がある限り、脳死は死ではない。(「脳死」=「死」であればそもそもそんな言葉は存在しない) 脳死とは、人工呼吸器の発達によって発生した新たな概念である。事故で頭部を損傷したとき、基本的な生命活動を制御する脳幹が機能を停止すると、通常であれば自発的な呼吸が行われず心拍停止によって死に到るのだが、人工呼吸器によって強制的に呼吸を行えば、心臓は活動を続けるのである。(それでも、現在の技術では、持たせる時間に限りがある)
脳死状態にある患者に「お前はもう死んでいる」と宣告したいのは、生きた臓器を移植に利用したいからである。(移植手術に使う臓器は活きが良いことが肝心らしい)ここで矛盾が生ずる。この人は「死んでいる」のに、臓器は「生きている」と言われる。この人は生きているように見えるが、実際には、生命力を失っており、機械によって体だけ生かされている、体が生きていても、脳が死んでいれば、「人として」生きていない、そこには人格は認められない、そこにあるのは、アンビリカル・ケーブルを接続されて機能している木偶人形にすぎない、というわけだ。すなわち「脳死=人としての死」という考え方は、人間が人間たらしめるものはつまるところ脳である、ということを意味する。これは『ドノヴァンの脳髄』の脳だけ人間(?)、ハマー・フィルムのフランケンシュタインものの脳移植手術や、『攻殻機動隊』の草薙素子そのものである。脳を別の体に入れ替えれば、別人になりながらも、その人格を保つことができるのである。逆を考えれば、生命維持装置がさらに発達すれば、脳が死んでもなお、寿命がくるまで体だけ生き続けさせることができるようになるのではないだろうか。そして死んだ脳の代わりにコンピュータによる人口知能を接続してやれば、生きた人間と見た目に区別のつかないロボットができるのではないだろうか(これってウェス・クレイヴンの『デッドリー・フレンド』?)。しかし、これは正しいのだろうか、人間はつまるところ脳なのだろうか?
『デスレース2000年』のフランケンシュタインは、パートナーとベッドに入りながら、これは何年のレースの事故で、これはあのとき、と交換した自分の体のパーツを挙げていく(そしてパートナーは、じゃあこれは、とアレについて聞くのだ、ウフっ)。確かに、どれだけ部品を交換しようとも、その人はその人であるように思える。しかし、私は、そんな外科手術が可能だとして、フランケンシュタイン博士が自分の脳を別の体に移したら、フランケンシュタイン博士の人格を備えるかどうかは大いに疑問だと思える。タンクの中で培養液に浸された脳が、デカルトの考える我であると考えることは馬鹿げている。脳だけで意識が生じるとは思えない。
「私」とは何か? 私とは自意識のことか。私の体は私ではないのか。脳死状態にある人間の「私」が失われているとどのように証明されるのか? それは私の歯が本当に痛むのかどうか同様に証明不可能である。あなたは植物に心があると思います? じゃあ、それはどこにある?

さあ、次第に考察が闇に紛れてきたようだ。この辺りで極めて個人的な見解を提示しておくとしよう。
脳が壊れ、しかし生命維持装置によって体が機能している場合、これは生きているものとする。この生命維持装置を外し、体の機能が失われれば、これは死んだものとする。私はあくまで、脳死は人間の死ではないと主張したい。どのような形であれ、生命があるものは、生きている、これは道理である。
とはいえ、だからといって、私は脳死者の臓器を移植に利用することに反対なのではない! 脳死者は死んでいる、だから臓器を抜き取っても良い、という理屈は成り立たないと思うだけなのだ。そうではない、これは、生物が自らの生命を保つために他の生物の生命を犠牲にするのと同じことだと考えたい。それを罪と呼ぶなら呼べばよい。私たちは罪深い。
もし私がドナー登録を頼まれたらこう言ってやる、生きている限り絶対自分の体を提供することに同意することはできない、もし私が脳死に陥ったら勝手にするがいい、そのとき自分の生命は人工呼吸器を握る医者の手にかかっている、抵抗しようにもできないのだから、けれども生きている限りそんなのは絶対お断りだ、と。

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事故にあった時、あるいは事故を起こしかけたとき、一瞬のことなのに、その光景が普段より鮮明に、まるでスローモーションを見ているように感じられるのはなぜか?

個人的には何度か経験があるのだが、事故にあった時、あるいは事故を起こしかけたとき、一瞬のことなのに、その光景が普段より鮮明に、まるでスローモーションを見ているように感じられるのはなぜか?
映画を例に取って考えてみよう。スローモーションを撮るには、通常よりフィルムを速回しして撮影すればよい。それを通常の速さで映写すると動きが遅くなるわけだ。(逆に速度を落として撮影、通常の速さで映写すれば動きが速まる道理)
となると、こう言えるかもしれない、危険を目前としたとき、われわれの知覚情報処理は、平常時より速い速度で、きめ細かく大量のデータを処理すると。この高速モードは、火事場の馬鹿力のように、非常用であり、普段は隠されている。しかし、ひとたびこれを体験すると、その世界をまた味わいたくなる。通常よりずっとゆっくり時間が感じられる世界。危険な状況に自らを置くことなく、高速モードを意図的に呼び出すことができないものか。

スキーの滑降でもの凄い速度を出すとき、まるで自分の体がロボットになって、自らは魂のようにふわふわと浮かんでおり、それを操縦しているような感じになると聞く。つまり、極度に集中が高まるとき、われわれは高速モードに入ることができる。しかし、個人的な経験によれば、この逆もあるのだ。私はときおり、駅のプラットフォームから改札への階段を下りるとき(*1)、いつもとちがって周りが鮮明に見えることがある。事故のときのようなスローモーションとまではいかないが、周りの動きが柔らかに感じられる。自分は何か暖かいものに包まれているような感じがする。特に何かに集中していたわけでも、瞑想していたわけでもない、もちろん、危険な状況にあるわけでもない。しかし、この感じは確かに、雪の降った翌日、凍結防止剤の撒かれた高架のカーブでバイクの後輪が滑ってガードレールに突っ込みそうになった(しかしどういうテクニックか体勢を立て直した)ときと同じものだ。

マズローは「至高体験」は「思いがけない良い知らせ」であり、突然にやってくるもので、任意に呼び出せるものではないと言っている。しかし、修行を積んだ行者が心拍さえも意識的に制御できるようになるように、われわれは「頭の回転」数を制御するシフトレバーをどこかで握ることができるのではないだろうか。

「脳力」を高めることにより、われわれは、もっとリアルな世界を手に入れられるのだろうか。そして逆に老化などで「脳力」が弱ると、いたずらに時は過ぎ去ってゆくことになるのだろうか。

*1 なぜ駅の階段なのかわからないが、原因がこの場所ゆえというわけではないことが、祭を見物していたとき同じ状態が起こったことで確認できた。

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