拙訳はやめて読解コールリッジ「クーブラ・カーン」断章 my poor reading of "Kubla Khan" by Samuel Taylor Coleridge "A Fragment"

当ブログ記事「拙訳オリビア・ニュートン=ジョン「ザナドゥ」my poor translation of "Xanadu" by Olivia Newton-John」で、コールリッジの詩に言及してから、何度か読み直したが、いまだうまく訳せない(直訳するなり、大意を理解するなりはできても、日本語の詩にならない)ので、一旦拙訳はあきらめて、ここまでの読解の解説にとどめることにした。この詩は、大きく三つの節に分かれていて、

In Xanadu did Kubla Khan
A stately pleasure-dome decree:

から始まる。この冒頭の句は、1980年代半ばにトレヴァー・ホーンのプロデュースによりヒットを飛ばした(「一発屋」ではなく「三連ちゃん」)、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのアルバム「プレジャードーム」のタイトル曲で、

In Xanadu did Kublai Khan a pleasuredome erect

と、もじられている。

Kubla Khan
BY SAMUEL TAYLOR COLERIDGE
Or, a vision in a dream. A Fragment.

詩の題名になっている「クーブラ・カーン」とは、モンゴル帝国の第五代皇帝で、欧州にはマルコ・ポーロの旅行記『東方見聞録』によって広く知られることになった。名前の表記の「揺れ」がいくつかあるので、Wikipedia に従って、以後、「クビライ・カアン」と表記することにする。なお漢字表記だと「忽必烈」になる。「カアン」というのは、「皇帝」「王」「天皇」「将軍」といった類の称号だが、「カアン」と「カン」は少々異なる。注意が必要。元寇を起こしたのはこの人。

「ザナドゥ」あるいは「キサナドゥ」は、マルコ・ポーロが伝えているが、史実から言うと、クビライが作った「上都」にあたる。クビライは、モンゴル王朝の中国王朝化の改革(元朝建国)を行っており、現在の北京に当たる「大都」を作って首都としたのだが、モンゴル民族の遊牧生活も続けており、夏には、避暑のため、内陸部の「上都」に移り、国政を司った。ここが「ザナドゥ」である。ここがどんな様子だったかは、詩の第一節三行目から記述されている。

残念ながら、学校では、抑えておくべき、こういった基礎知識は教えてもらえなかった。しかし、時代は変わり、インターネットが知識を平準化(大衆化)してくれた。今では、誰でも(言い過ぎか)、比較的容易に、こういった知識を得ることができる。良い時代になったものだ。インターネットは産業革命に匹敵する情報革命と言うべきだろう。話が逸れたので戻す。

こういった基礎知識がないと、なぜ「歓楽宮」が、
A sunny pleasure-dome with caves of ice
と詠われるのか、「氷の洞窟がある」とはどういう意味か、きっちり理解できないと思う。史実として本当にあったかどうかはさておくとして、恐らく、冬の間にできた氷を貯蔵しておいて、夏に涼むために、氷の部屋みたいなものを作ったのではないかと。当たり前だが、昔はエアコンなんぞなかったのである。
日本でも、古くから、夏の氷は貴重品として扱われてきたのであり、氷を大量に使うであろう人口の洞窟を作るとは、その強大な国力を想像させる。

In Xanadu did Kubla Khan
A stately pleasure-dome decree:
Where Alph, the sacred river, ran
Through caverns measureless to man
Down to a sunless sea.
So twice five miles of fertile ground
With walls and towers were girdled round;
And there were gardens bright with sinuous rills,
Where blossomed many an incense-bearing tree;
And here were forests ancient as the hills,
Enfolding sunny spots of greenery.

第一節は、クビライが歓楽宮を建てるよう命じた、ザナドゥがどのようなところだったかが記述されているわけだが、わかりにくいところとしては、聖なる河アルフが計り知れない洞窟を通って日の当たらない海に流れ込んでいた、という記述である。モンゴルに海と言われてもなあ、という気がする。「カスピ海」が海ではなく湖であるように、
a sunless sea
は、地底湖(地下湖)の類なのではないか、と。実際モンゴルにそういったものがあるのかどうか知らない(少なくとも海はなく湖はある)が、ネット検索で地底湖の画像を検索すると、実物の様子が色々見られるので、詩の理解に役立つと思う。
こう書くと当たり前のように聞こえるかもしれないが、なかなか理解できないものである。

But oh! that deep romantic chasm which slanted
Down the green hill athwart a cedarn cover!
A savage place! as holy and enchanted
As e’er beneath a waning moon was haunted
By woman wailing for her demon-lover!
And from this chasm, with ceaseless turmoil seething,
As if this earth in fast thick pants were breathing,
A mighty fountain momently was forced:
Amid whose swift half-intermitted burst
Huge fragments vaulted like rebounding hail,
Or chaffy grain beneath the thresher’s flail:
And mid these dancing rocks at once and ever
It flung up momently the sacred river.
Five miles meandering with a mazy motion
Through wood and dale the sacred river ran,
Then reached the caverns measureless to man,
And sank in tumult to a lifeless ocean;
And ’mid this tumult Kubla heard from far
Ancestral voices prophesying war!
The shadow of the dome of pleasure
Floated midway on the waves;
Where was heard the mingled measure
From the fountain and the caves.
It was a miracle of rare device,
A sunny pleasure-dome with caves of ice!

第二節は、第一節に続けて、ザナドゥの風景を詠っているようだが、第一節の静謐な感じと異なり、内容がかなり動的になっている。主に、聖なる河アルフの水源の様子が記載されているようで、そこは「野蛮な場所」"A savage place" と呼ばれている。ここは、

as holy and enchanted
As e'er beneath a waning moon was haunted
By woman wailing for her demon-lover!

だという記述が難しい。直訳すると、「魔性の恋人を求めて嘆き悲しむ女が出没する下弦の月夜ほど神聖で魅惑的」といったところか。なにか飛躍している感がある。なぜこんなイメージがいきなり現れるのかよくわからないが、それについては、数々の「研究」があるようだ。
waning moon 下弦の月(欠けていく半月)
この女は、満月の夜にうろつく「狼憑き」のようなものだろうか? なにか関連する逸話かなにかありそうな。しかし、なんだって、それに魅せられるのか?

romantic
ロマン派絵画のような、ということか?

確かにこの種の風景画は、この詩のイメージに合っているかもしれない。が、
unrealistic「非現実的」→「この世のものとは思えない」ぐらいに受け取っておくのが無難かと。

アルフ河は、杉で覆われた緑の丘を下る、幻想的な深い「割れ目」(亀裂?)から、断続的に吹き出しているとのこと。それは、大地が深く激しくあえいでいるかの如く、とかなり肉体的なイメージになっている。岩を砕いて石を飛ばすほど激しく噴出しているとある。
rebounding hail 跳ね返るひょう(あられ)
thresher’s flail 脱穀機のからざお
少々サディスティックなイメージだろうか。(「ジョジョ」に比べたら、まったくかわいいものでしかない)

で、泉から噴き出した水が、河になって、うねうねと流れて、洞窟に入って行って、「生命のない海」"lifeless ocean" に注ぎ込むと。
海と言うと、通常、生命の源のイメージだが、「生命のない」と断っているところから、やはりこの「海」は、普通言うような海ではないのだろう。(自分は地底湖(地下湖)の類と解したが、人によっては、川の流れを人生に見立てて、この「海」に死のイメージを見るようだ。どうかな? まだ読解の段階で、そこまで感じない)

ここで、冒頭に出てきたクビライが再登場して、戦乱を預言する声を聞く。(この方、生涯戦争ばかりしていた印象ですが…)
で、初めて、クビライが建設を命じた歓楽宮の姿が出てくる。ただし、影(水に映った映像)のみ。

The shadow of the dome of pleasure
Floated midway on the waves;

またわからなくなるのが、この波は、どこの波なのか?(海の波ではない?)

Ebenezer-wake-cook-british-18431926-the-

この詩を題材に描かれた水彩画を見ると、歓楽宮は川辺に建っているのだが、こういうことでよいのかどうか?(納得いたしかねるなあ)
そこでは、水源(先にその動的な様子が描写された)といくつもの洞穴からの混じり合った調べが聞えた、とあるが…(間歇的に噴出するブシュッという音と、洞窟の中を流れるサラサラいう音が混じって、音楽のように聴こえるのか?)
「海」が地底湖であれば、そこに歓楽宮の影が映るのは無理があるような?
注意したいのは、クビライが建設を命じた歓楽宮はまだ一度も描写されていないこと。ここでようやく水に映った姿が登場する。

It was a miracle of rare device

ということは、すべて造り物だということかもしれない、「海」も? とはいえ、アルフ河の源泉は、その迫力ある描写からして、とても造り物とは思えない。

A damsel with a dulcimer
In a vision once I saw:
It was an Abyssinian maid
And on her dulcimer she played,
Singing of Mount Abora.
Could I revive within me
Her symphony and song,
To such a deep delight ’twould win me,
That with music loud and long,
I would build that dome in air,
That sunny dome! those caves of ice!
And all who heard should see them there,
And all should cry, Beware! Beware!
His flashing eyes, his floating hair!
Weave a circle round him thrice,
And close your eyes with holy dread
For he on honey-dew hath fed,
And drunk the milk of Paradise.

第三節は、起承に続いて「転」じているようだ。
マルコ・ポーロは『東方見聞録』に「大理石で出来た宮殿があり、建物の内部はみな金で塗られ、鳥獣花木の絵が描かれるなど工芸や技術の粋を尽くした装飾がなされて見るものの目を楽しませている、と書き残している」そうだが、この詩には、歓楽宮の具体的な描写は含まれておらず、ただ、「陽当りのよい丸屋根と氷の洞窟がある」とだけ言及される。

この詩は、薬として阿片を飲んで眠って見た夢を、思い出して記述したと作者が書いており、客人が来て中座して思い出せなくなり、書き切れなかったとのこと。歓楽宮の具体的な描写がないのはそのせいかもしれない。

A damsel with a dulcimer
In a vision once I saw:

ダルシマーをもった少女を
かつて幻想で私は見た:

ここで言われている、かつて見た幻想が、この詩を書くことになった夢なのか定かでない(普通はそのように読まれているようだ)が、このアビシニア(現在のエチオピア)の乙女が歌った曲を、頭の中で再現できたなら、歓楽宮を空中に建てることができる(まさしく空中楼閣)だろうと詠われている。
夢で見たはずの歓楽宮の様子は失われてしまったが、アボラ山(*1)の歌を聴けば、夢見た歓楽宮のイメージを作り出すことができるというわけだ。(ここから、これは[詩の]創作について語っているのだ、と読まれることが多いらしい)
詩人の眼は爛々と輝き、髪の毛が逆立つ(スーパー・サイヤ人か?)。結界を張らなければならない(ほど危険な状態?)。

(*1) アボラ山のなんたるかについては、英語版Wikipediaのこの詩の解説参照。実在の山がモデルになっているらしく、作者が読んだらしい、ポルトガル神父のエチオピア旅行記ではアマラ山として記載されているとのこと。またミルトンは『失楽園』においてアマラ山をこの世の楽園として詠っている。アボラ山の歌とは「桃源郷の歌」といったところだろうか。ネット検索すると、南アフリカのワインの銘柄(コールリッジのこの詩に由来)や、音楽アルバムのタイトルやらで引っかかるのがやっかい。

元朝が広大な領土を誇ったとはいえ、アフリカ大陸には到達していなかったのだから、アビシニアの娘は奴隷ではなかっただろうし、アフリカの国と交流があったとも思えず、客人とは考えにくい。(欧州経由の客人ということはありえたかもしれない)
いずれにせよ、史実ではなく、詩人の創作だから、元朝にアビシニアの娘がいても不思議はないが、普通に読むなら、確かに、この乙女は、ザナドゥ幻想とは無関係に、詩人の霊感(インスピレーション)の源泉と考えたほうが良いのではないか。

For he on honey-dew hath fed,
And drunk the milk of Paradise.

これ意味がわからないですね。(適時修正追記することにする)
詩的想像力によってこの世の楽園を創造しようという試みは、大げさにすぎないか? 詩人の糧となる蜜 "honey-dew" は「詩的想像力」ということか? では「楽園のミルク」とは?(アビシニアの乙女の歌うアボラ山の歌を聴くことと、楽園のミルクを飲むことは、同義の言い換えか?) これを飲んだ者は「人外」(ヒトではないもの)になるのか? 始祖は、知恵の実を食べて楽園を失った("experience")が、「楽園の乳」を飲めば楽園を取り戻せる("innocence")、ってか?

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60’s STYLE BOOK

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おしゃれのヒントがたくさんつまった60年代スタイルブック

主に以下の女優とその出演映画が紹介されている。
ジーン・セバーグ
ツィッギー
カトリーヌ・ドヌーヴ
ジョアンナ・シムカス
ブリジット・バルドー
アンナ・カリーナ
クラウディア・カルディナーレ
モニカ・ヴィッティ
ジェーン・バーキン

その他、
オードリー・ヘプバーン
ジャクリーン・ケネディ
マリア・カラス
マリリン・モンロー
ジャン=ポール・ベルモンド
への言及あり。
彼ら以外の出演映画もいくつか紹介されている。

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テスの失われた靴

ルネ・マグリットの「赤いモデル」という絵を見ると、トマス・ハーディの『ダーバヴィル家のテス』の一挿話が思い起こされる。テスが離れた夫を尋ねて町まで歩いていき、近くまで来たところで華奢な靴に履き替える、そこでそこまで履いてきた靴を道端に置いておくと、尼さんが目ざとくそれを見つけ、なぜこんなぼろぼろの靴がきちんと揃えてこんなところに置いてあるのだろうと訝りながら、恵まれない人にあげましょうと持っていってしまう、結局夫に会えなかったテスは、帰り道を履き慣れない華奢な靴で、足の痛みに耐えながら、とぼとぼ歩いていく...
私はこの挿話を偏愛している。残念ながら、ロマン・ポランスキー監督、ナスターシャ・キンスキー主演の美しい映画化『テス』では、このシーンは入ってなかった。あのぼろぼろの靴はどこへ行ったのか、と思うとき、心の中で私は、彼女の、健気な、その痛む足を抱きしめているのである。

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キーツの「夜鳴鶯頌」について

私は昔からうんざりするほど一貫して以下の立場をとっている...

キーツの「夜鳴鶯頌」は8節からなる詩で、概要は次のようなものである。

1) ハートが痛む、感覚が麻痺する、阿片か鎮静剤をあおったかのよう、忘却の淵に沈みこむ、
それはお前の幸せを羨むからではない、お前の幸せの中であまりに幸せだからだ、
伸び伸びと夏の歌を歌う鳥よ
2) 酒をくれ!飲んで陽気になろう、飲んでお前と一緒になりたい
3) 苦渋に満ちた惨めなこの世とおさらばしたい
4) お前のところに飛んでいく、それは酒の力ではなく、ポエジー(詩的想像力)の翼によって
5) 暗闇の中嗅覚を働かせる、花々の咲き乱れる楽園的世界
6) 暗闇の中聴覚を働かせる、このまま死ねたら、安楽死への憧れ
7) 不滅の鳥よ、昔も同じようにお前の歌を聴いた者たちがいた、「寄る辺なく」
8) 「寄る辺なく」という言葉が、現実に引き戻す、
幻だったのか白日夢だったのか、私は目覚めているのか眠っているのか?

 問題は、第一節で、英文学研究者たちの読み方だと、これは、ナイチンゲールの鳴き声のあまりの美しさに、茫然自失、我を忘れる呈を表しているのだそうだ。だが、そんな読み方がなぜできるのかまったく理解に苦しむ。それではこの詩の全体の流れがぶち壊しになってしまう。
 第1節だけを読んでみても、いきなり「心苦し」と始まり、阿片か麻薬を飲んだように感覚が麻痺しただの、三途の川に沈むだの、どう読んでも、美しい歌声に浸っているには似つかわしくない様子でしかない。私たちは、好きな音楽に浸っているとき、ああ幸せだなあ、と思うことがあるかもしれない。とはいえ、「私が幸せすぎる」と言ってはみても、それはあくまで「お前の幸せにおいて」の話である。私が苦悩に満ちるのは「お前の幸せな領分を羨むからではない」、君は幸せだ、なのに私は何て惨めなんだろうと思って苦しむのではなく、「お前が幸せだと私もあまりに幸せだから」苦しむのだと書いてある。研究者が言うように、鳥が伸び伸びと夏の歌を歌っているの聞いているから私は幸せであり、その絶頂感において感覚が麻痺するほどだと言うのであれば、なぜ「私はお前の幸せな領分を羨む」などと言う言葉が出てくるのかわからなくなってしまう。
 全体を見ても、明らかに、起承転結、(起)苦悩で始まり、(承)いかに苦悩から逃れようか迷い、(転)詩の力で逃れて絶頂に達し、(結)「空想はうまくだましてくれない」と夢から覚める、といった流れがある。もし、「私」が鳥の歌声を聴いてそんなに幸せなら、なぜ酒をくれと言い出したり、最後に夢から覚めて愚痴ってみたりするのか筋が通らないではないか。
 最初の節では鳥の鳴き声を聴いているという記述は一切ない。「私」がその歌声を聴くと記述があるのは第6節、詩的創造力で鳥の傍に飛んでいった後の話なのである。第1節にある「ノドを一杯に拡げて伸び伸びと夏の歌を歌う」は、「幸せな領分」にある「お前」の説明であって、「私」がその歌を今聞いているとはどこにも書いてない。では、「私が幸せすぎる」というのはおかしいではないか、と言われればその通りである。この「幸せ」を文字通り受け取ることはできない。
 私が苦悩するのは、お前の幸せな領分を羨んで(それと比較するに惨めな私自身の境遇を思ってのことで)はない、私はお前が幸せであることで幸せすぎるからだ...という告白全体が、尋常ならざる苦悩を表している。私は空想の中においてだけ、お前と一緒になれる。現実にはお前は離れたどこかで幸福に暮らしているのだ。私はお前と一緒になれないからといって、お前が不幸になればよいとは思わない、お前が幸せであれば、それで私も幸せなのだから、そのはずだ、そのはずなのに、なんなんだ、私のこの苦しみは!
 酒を飲んで憂さ晴らししても気分は晴れない、この世は苦しみと悲しみにばかり満ちているように思われる。だからブルーズを歌おう。詩的想像力によってお前と一緒になった私は楽園的世界に入り込む。このまま安楽に死んでしまえたらどんなによいことだろうと想像する(第1節の「阿片を飲む」というのが当時、自殺の方法として一般的だったことが繋がってくる)。古代の人もこの歌声を聴いて心慰められたに違いないと考えたとき、「寄る辺ない」という形容詞が、映画『ある日どこかで』の硬貨のように、私を現実に引き戻してしまう。
 愛し合ったロミオとジュリエットが朝を迎えて、あれはひばりの鳴き声ではない、夜鳴鶯だと言って、別れを惜しんで、夜を引き伸ばそうとしたように、「私」は失われた幸福をナイチンゲールの歌声の響く幻想の中に求めてやまないのである。

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